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第十一章 再会(三)

 どれほどのあいだそうしていたのか、気がつくと、神の怒りが爆発したような鳴動はおさまっていた。
 風も、静まっている。

 おそるおそる顔を上げた美守の目に、崩落した壁や土石の山が飛びこんできた。周辺は、いまだ濛々と土埃が上がり、視界が利かない。その惨状に息を呑んでゆっくりと身を起こすと、頭や躰に降り注いだ土砂がパラパラと落ちた。
 大音響に鼓膜を叩かれた耳が、頭の中で数万匹の羽虫がいっせいに羽ばたいているような悲鳴をあげていた。
 咽喉(のど)や眼が痛い。頭も、そして躰のあちこちも痛む。息が、苦しい。
 涙を流して激しく咳きこみながら、美守はそれでも立ち上がって周囲に目を凝らした。

 トキは、波子は、雛姫、そして真尋は───

 まえへ踏み出そうとした美守の左足首を、突然、なにかが強い力で掴んだ。
 ただでさえ神経を極限まで張りつめていた美守は、盛大な悲鳴を放って足首に絡まるなにかを死にものぐるいで振り払おうとした。

「み、美守、様……、これっ、わたくしでございます」

 やはりゲホゲホと咳きこみながらかじりついてきたのは、先程美守の背から投げ出されたトキだった。我に返った美守は、途端にヘタヘタとその場に座りこんだ。

「な、なによ、いきなり。びっくりするじゃないの」

 文句を言いながらも、美守はトキの無事な姿を見て泣き笑いを浮かべた。トキもまた、土埃に汚れた顔に、汗と涙を滲ませながら金歯と銀歯の混じった入れ歯を見せてニッと笑った。

「大地の御力を授かった婆(ババ)は、あの程度ではくたばりませぬ」
「悪運だけは強いもんね」
「それはお互いさまですじゃ」

 ふたりの女たちは、互いの無事な姿を確認した安堵感から、妙な連帯感を芽生えさせてクククと笑い合った。

「真尋たちは無事かしら」

 もう一度辺りを見回すと、視界を遮っていた土煙が徐々にクリアになって、数メートル先まで見通せるようになった。

「美守様、あれあちらに」

 老婆の示した先に、碑文の赤い文字がうっすらと浮かび上がって見える。だが、その光は先程より確実に明るさが薄れていた。足場もまた、烈震によってだいぶ崩れ落ちたのか、縦横に走る亀裂とともに、かなりの面積が削り取られていた。真尋が立っていたはず場所も、見事に消えている。
 認識した瞬間、中空に投げ出された雛姫の姿とともに、それを追って腕を伸ばした真尋の映像が鮮明に蘇った。美守の全身に鳥肌が立った。

「まひろ……」

 掠れた声を絞り出した美守は、崖に向かって這いずっていった。

「美守様、危のうございます」
「そんなこと言ってる場合? あんたの大事な姫様だって落ちたかもしれないのよ!」

 咄嗟に躰に縋って引き止めようとしたトキを、美守はもどかしげに振り返った。

「姫様!」

 途端に老婆は美守を解放すると、年寄りとは思えぬ機敏さで我先にと崖の淵まで這っていった。呆れた美守は、ひそかに嘆息する。しかし、

「みっ、美守様っ!」

 切迫したトキの声にハッとして、慌てて立ち上がった。
 すぐさま歩み寄った美守は、トキが覗きこむ崖下に目を向け、悚然(しょうぜん)とした。

 先程から洞窟内を照らしていた下からの明かり。
 ぱっくりと開いた口の中でグツグツと滾っていたのは、紛れもない溶岩の輝きだった。

 御焚き上げの煙──そう信じて疑わなかった山頂に立ち上るあの煙は、これだったのだ。

 竦んだ足をよろめかせた美守は、何気なくその足下に視線を落として鋭い悲鳴を放った。
 自分の爪先から数メートルと離れていない崖の淵にかかっていたのは、人間の指先。その向こう側には、当然ながら手をかけた人間がぶら下がっていた。

 片手でかろうじて淵にぶら下がった真尋は、自分の体重に加えて、もうひとりぶんの体重まで支えていた。

「まっ、真尋っ! しっかりしてっ」

 いまにも脆くなった岩盤ごと溶岩流の中へ墜ちていきそうな真尋に、美守は腹這いになって手を差し伸べた。

「馬鹿、下がってろ。おまえまで落ちるぞ」
「馬鹿はあんたよ! いつまでそんな状態が保(も)つと思うのっ。無理に決まってるじゃない!」

 叫んで、美守は真尋の手首を掴んだ。だが、女の細腕では、真尋ひとりでも引き上げることは適わない。トキもまた、美守のわきから手を伸ばし、真尋の腕を掴んだ。とはいえ、加わったのは小柄な老婆の力ひとりぶん。事態は、結局膠着したまま好転しなかった。

 せめてひとりでも男手があれば。

 落ちないように必死で真尋の手首を掴みながら、美守は懸命に考えを巡らせた。
 白くなった真尋の指先が、次第に震えを強くし、数ミリ崖のほうへずり下がる。

「真尋っ、ダメ! 諦めないで!」

 叫びながら、美守は絶望的な思いで真尋のもう一方の腕先に目線を落とした。
 気を失っているのか、雛姫はぐったりとぶら下がったままピクリとも動かない。

 あの子さえいなかったら──もし、真尋ひとりだけだったら……。

 ふと過(よ)ぎった考えは、しかし、トキの視線とぶつかった瞬間に消し飛んだ。
 思考を読み取ったかのタイミングで、老婆は顔を上げ、美守を顧みた。
 小さな金壺眼(かなつぼまなこ)の奥に広がる謐(しず)かな深淵は、底なし沼を思わせた。いっさいの感情が消えた眼差しは、得体のしれない生き物のように無気味だった。

 美守は気まずさのあまり視線を逸らした。だが、数拍おいて老婆が口にしたのは、美守が考えていたこととはまったく別のものだった。

「──ウキが、こちらに向かっております」
「……え?」
「もうまもなくウキが参ります。志姫様に伴われ、司様とともにこの洞を目指しているところでございます」

 助かるかもしれない。

 希望は、細い糸ながらも繋がった。その糸も、いくらも保たずに切れるだろう。それでも、まったくないよりましだった。
 安堵する間もなく、真尋の指先がまたしても燃え滾る奈落へと引き寄せられる。その顔が、苦痛に歪んだ。
 暑さと苦痛、そして緊張。
 もはや、だれのものとも区別のつかぬ汗が入り交じり、滑りやすくなった手は、互いを繋ぎ止めておくことすら困難になりつつあった。

「真尋お願い……もう少しだけ頑張って……!」

 限界を超えてなお、真尋は雛姫を離そうとしない。
 兄の腕一本にかろうじて躰を支えられた雛姫の額から、赤い輝きはすでに消えていた。けれどもその頬に、別の赤が彩りを添えた。

 1滴。また1滴。

 真尋の腹部から流れ落ちる鮮血は、染みこんだシャツの裾から雛姫の頬へと滴り落ちる。
 繰り返し頬を打つ規則的な刺激に、雛姫は意識を呼び起こされて身じろぎをした。真尋は、緊張を濃くして雛姫を見下ろした。
 固く閉じていた瞼が震え、一度きつく閉ざした後にゆっくりと開かれる。
 ぼやけた視界が徐々に焦点を結び、真っ先に真尋の顔をとらえた。

「ヒロ兄……」

 自分の置かれている状況が咄嗟に把握できず、雛姫は足下を確かめようとした。途端に、

「雛、そのまままっすぐ、俺の顔だけ見てろ。下は見るなよ」

 真尋の謐かな、しかし厳然とした声が降ってきて、雛姫は視線を戻した。

「俺の手を握り返せ。しっかり掴んで、絶対に離すんじゃないぞ。いいな?」

 穏やかに諭すように言い聞かされ、雛姫はその言葉に素直に従う。だが、いい子だと微笑んだ兄の額に不自然なほど大量の汗が噴き出しているのを見て、強い違和感をおぼえた。

 なんか変だ……。

 ぼんやりとした頭で、雛姫は思った。その頬に、生温かいなにかがふたたび落ちた。

 視界の端をとらえたのは、鮮やかな赤い色───

 無意識のうちに色をたどった目が、難なく原因を突き止める。真っ赤に染まっているのは真尋の着ているシャツの色。腹部を中心に白地を染め上げたそれは、布が吸収できる水分の限界を超えて裾から滴り、同時にズボンにも浸透している。真尋の躰から流れ落ちている赤は、紛れもない真尋自身の───

 刹那、雛姫は正気を取り戻して鋭い悲鳴を放った。

「ヒロ兄ッ、血が……っ!」

 叫んだ瞬間に、雛姫の中で途切れるまえの記憶がすべて蘇った。

「ヒロ兄、手、離して! お願いっ」
「余計なこと考えるな。いいから上だけ見てろ。絶対引き上げてやるから」
「いいよ、もうやめてよぉ。そんなにいっぱい血が出て、ヒロ兄死んじゃうよぉ」
「心配するな。俺はそんなヤワじゃない」

 真尋は安心させるつもりで笑ってみせた。けれど、悲鳴をあげている躰中の筋肉に連動して顔の筋肉もまた引き攣れ、上手く笑うことができなかった。
 自分の腕を掴む雛姫の手から力が抜けていく。

「雛っ!」

 声に呼応するように下から風が吹き上がり、真尋は意地でも離すまいと、泣きじゃくる雛姫の手首をさらに強く掴んだ。だが、雛姫の手が真尋を握り返してくることはなかった。

「雛、諦めるんじゃないっ。一緒に旅行に行く約束だろう? そのためにはまず、ここで頑張って、東京の家に帰らないといけない。違うか? 雛、家に帰るんだ」

 真尋は朦朧とする意識を奮い立たせ、懸命に言葉を紡いだ。

 家に帰る。

 真尋の言うことに耳を貸すまいと、雛姫は必死で顔を背け、拒んでいた。けれど、自分の意思を裏切って、心がそのひと言に激しく反応した。

「雛、一緒に家に帰ろう」

 真尋は言葉を重ねた。

「でも……、でも、ヒロ兄……、雛は………」

 大きく心を動かされ、新たなる涙を溢れさせながら、雛姫は嗚咽(おえつ)を漏らした。

「いい子だ、雛。大丈夫だから、俺がちゃんと助けるから、だから俺を信じてちゃんと掴まってろ」

 雛姫の双眸をまっすぐに瞶(みつ)め、真尋は今度こそ穏やかな微笑を浮かべた。涙に濡れる瞳をしっかりと見開いて、雛姫は兄を瞶め返す。そして、しゃくりあげながらも、もう一度掴まりなおそうと手を伸ばした。その瞬間──

【お可哀想な姫様──】

 どこからともなく、波子の声が辺りに谺(こだま)した。

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