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第2章(2)

『金の鳥 銀の鳥』【作品紹介】

「あなた、どなた?」

 唐突にかけられた誰何(すいか)の声には、見知らぬ相手に対する素朴な疑問と、素性をたしかめるための、ごく単純な問いが含まれていた。
 祖父さんの使いでグレンフォード家の本邸を訪ねた折のことである。
 応対に現れた家令とのやりとりのさなかに割り込まれ、なんの気なしに声が降ってきたほうへ目線をやると、玄関ホールの正面奥、二階へとつづく幅広の大理石の階段途中にガウン姿の女が立っていた。

「お、奥様!」

 家令がやや平常心をとりこぼした上擦った声をあげると、奥に控えていた使用人たちがあわてて階段下まですっとんできた。

「ねえ、あなた見かけない顔ね。こんなハンサムさん、一度でもお話ししてたら憶えてるはずなんだけど」

 ガウン姿のイザベラ・グレンフォードは、狼狽える使用人たちの制止の声など気にした様子もなく、フワフワとした足取りで階段を下りてきた。その右手には、ワイングラスが握られており、飲みかけの紅い液体が女主人の歩みに合わせて危うげに揺れていた。
 グレンフォード家の家令が、女主人の失態をこれ以上客の目に晒すことのないよう、そして女主人が客に対して無礼を働くことのないよう、二重の意味合いをこめてあいだに入り、俺の目の前に立ちふさがるようにしてイザベラと向き合った。

「奥様、こちらはシルヴァースタイン家のご次男、ラルフ・ジェラルド様であらせられます。ご用の向きは、旦那様に代わりまして、わたくしが責任を持って承りますので、奥様は何卒お部屋でお休みくださいますよう」

 家令の懸命の努力も虚しく、シルヴァースタインと聞いた途端にイザベラの声が「あら」とはしゃいだようにワントーンあがった。

「あなた、シルヴァースタイン家の方だったの。ご次男? 本家の? それとも分家筋かしら?」
「奥様!」

 家令越しに覗きこんできた碧玉の瞳は、白目部分が充血して、全体に濁っていた。トロンとした目つきの中に、どこか得体の知れない晦冥(やみ)が漂っており、同時に昏い欲望が見え隠れしていた。

「本家の次男です、マダム。ご挨拶が遅れ、失礼いたしました。はじめまして、ラルフ・ジェラルド・シルヴァースタインと申します」
「近くで見ると、ますますハンサムね。黒髪と黒い瞳がとってもセクシー」

 イザベラは、ふらつく躰を家令に抱きかかえるようにして支えられながら、フフフと含み笑いを漏らした。

「そう、本家のご次男なの。知らなかったわ」
「社交の場が苦手なものですから」
「まあ、気が合うわね。わたしもよ」

 イザベラは機嫌良く応じると、手にしたワイングラスを気取った様子で掲げてみせた。

「パーティーに社交界に慈善事業。欺瞞に満ちた世界で、たくさんの偽善家たちをまえに、ニッコリ笑顔の仮面をかぶって嘘の言葉で讃え合うの。『ご機嫌よう、奥様。本日はまた一段とお美しくていらっしゃって! どんなに素晴らしいドレスや宝石も、奥様の美のまえでは、ただの引き立て役同然。すべてが霞んで見えるようです!』――ね? 馬鹿げているでしょう?」
「奥様、どうかお部屋へお戻りを!」

 使用人たちは見苦しくならないよう精一杯気を遣いながら、イザベラを、しがみついている家令から引き剥がそうとする。家令は首だけをこちらに振り向けて、女主人の非礼を詫びた。

「申し訳ございません。奥様は本日、少々体調が優れぬものですから」
「そんなことないわ、ミゲル。わたしは体調も悪くないし、気分だってとってもいいもの」

 歌うように言って、イザベラは自分を押さえつける使用人たちを乱暴に振り払い、家令を押しのけてしなだれかかってきた。

「ねえ、いまからあなたをパーティーに招待してあげる。いつもの気取った人たちが集まった、つまらない宴なんかじゃないわよ。特別な人だけが許された、わたし主催のパーティー。わたしのお部屋で、わたしの気に入った人だけが集まってする、とっても楽しくて素敵なパーティーなの。なにをしても、どれだけ騒いでもいいのよ」

 イザベラは、痩せているわりに豊満なみずからの胸を俺の躰にぴたりと押しつけ、口唇(くちびる)が触れるほどの距離まで伸び上がって、間近に両目を覗きこんできた。邪悪なまでに輝く碧眼が、期待と歓喜にうちふるえて潤んでいた。

「今日の招待客はあなただけ。わたしね、ホステスとして、招待したどんなお客様でも満足させられる自信があるのよ。あなたもきっと、帰るのがイヤになっちゃうくらい娯(たの)しめるわ」

 男女の機微に疎いほうではないし、鈍いほうでもなかったが、このときばかりは誘われているのだと気づくまでに少し時間がかかった。
 自宅の玄関先で、使用人たちをまえにしての大胆すぎるアプローチ。
 乱れたガウンの胸元を気にすることもなく、否、おそらくはその白い豊かな谷間さえ武器にして、イザベラ・グレンフォードは『シルヴァースタイン家の人間』を欲望の赴くままに手に入れようと誘いをかけてきた。

「奥様っ!」

 押し殺した家令の声が、悲鳴のように耳朶を打った。
 俺は、そんな家令に対して目顔で大丈夫だと頷いてみせ、足もと不如意なイザベラの腰に手をまわし、不安定なその躰をしっかりと支えた。

「わたしをお部屋へ連れて行ってくれない?」

 耳許に寄せられた官能的な口唇から甘い囁きが漏れると同時に、呼気に混ざるアルコール臭が胃酸と混じって饐(す)えた臭いを発し、鼻を刺激した。

「失礼、マダム」
「なぁに?」
「せっかくのありがたいお誘いですが、お断りさせていただきます」
「なぜ? 今日は忙しい?」
「いいえ、とくにこれといった予定は」
「だったら遠慮することないわ。わたしの部屋は、二階左手の奥。いちばん西側よ」

 さあ、と促して首にからめようとした両腕をはずし、間近に迫った艶麗この上ない美貌を見下ろす。媚びと情欲を含んだガラスの碧玉が、じっと見返してきた。

「もしかして、奥様がいらっしゃる?」
「いいえ、残念ながら独身です。婚約者ならいますが」
「じゃ、このことがその婚約者さんの耳に入ることを恐れてるのね。見かけによらず臆病ね。でも、それだったら平気よ。あなたが自分から吹聴してまわらないかぎり、人に知れることはないから。ここにいる者たちも皆、ちゃーんと心得てるの」
「残念ながらそういうことでもありません」

 出産経験者とは思えないイザベラの細腰を抱いたまま、俺はひと呼吸置いた後にきっぱりと告げた。

「貴女は、俺の好みではないんです」

 イザベラの表情に、はじめて素の顔が覗いた。言われた意味が理解できなかったかのようにきょとんとしたその顔は、思いのほか、あどけない幼さを残していた。
 これまで自分がかけた誘いを、それもこんな理由で拒んだ男など、ひとりもいなかったのだろう。断られることそのものが、想定の中に微塵も入っていなかった様子でイザベラは小首をかしげ、何度か瞬いた。

「……そう」

 やがて小さく口の中で呟いた女は、自分の足で立ち直すと、密着していた躰を離して距離を置いた。

「あなた、思ったよりつまらない男ね。つまらなくてくだらないわ。わたしとおなじ種類の人間のくせに」

 言い切るなり、急激にいっさいの興味をなくした様子でクルリと背を向け、屋敷の奥へと立ち去っていった。

 ――つまらなくてくだらないわ。わたしとおなじ種類の人間のくせに。

 吐き捨てるように浴びせられた言葉は、あまりに痛いところを突きすぎていて、返す言葉はひと言も思い浮かばなかった。

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