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第二章 予兆(三)
その夜、雛姫は40度の高熱を出して寝込んだ。
「ごめんね、ヒロ兄。昼間、クーラーにあたりすぎちゃったかなぁ」
定期的に額や腋の下を冷やすタオルを替える真尋に、雛姫は熱で潤んだ瞳を申し訳なさそうにさらに潤ませた。
「気にしなくていい。傍にいるから、ゆっくり休め」
「うん……」
弱々しげに頷いて、雛姫はすぐに深い眠りに落ちた。
高い熱を発する躰に団扇を使って弱い風を送り、途中、氷嚢と水枕の氷を換えてはみたものの、雛姫の様子は一向によくなる気配もない。頬を真っ赤にして大量の汗をかき、浅く速い呼吸を繰り返してはひっきりなしに苦しそうに寝返りを打つ。真尋の不安は的中し、夜中の2時をまわったころ、雛姫は突然額を押さえて頭が痛いと苦しみだした。
「雛、雛っ。大丈夫か!? しっかりしろっ!」
「痛い、痛いよぅ。おでこが灼ける……っ。ヒロ兄、頭痛いよォ…ッ!」
「待ってろ! いま病院に連れてってやるっ」
タオルケットで雛姫の躰を包んで抱きかかえた真尋は、そのままアパートを飛び出してすぐ近くの個人病院に駆けこんだ。
「すみませんっ! 急病人なんです! お願いします、開けてくださいっ!!」
寝静まった住宅街に、切迫した若い男の声と繰り返しガラス戸を叩く音が響きわたる。真尋は近所迷惑も顧みず、扉を叩きつづけた。真っ暗だった玄関にほどなく明かりが灯る。奥から人の気配が近づいてくると、鍵を開ける音がした。
「はいはい、どちらさま?」
深夜に突然押しかけてきてインターホンを連打し、何度もガラス戸を叩く人騒がせな来訪者に、パジャマ姿の初老の男性が辟易した様子で眼鏡をかけながら薄く開けたドアの向こうから顔を覗かせた。
「夜分にすみません。妹が高熱を出して苦しんでるんですっ。診察をお願いします!」
「あー、急患ね。うちは救急の患者は扱ってないんだけどな。まあいいや、来ちゃったものはしかたない。とにかく入りなさい」
欠伸(あくび)混じりののんびりとした口調でなかへ請(しょう)じ入れられ、真尋はひとまず安堵して医師の後につづいた。
頭が痛いと先程まで泣き叫んでいた雛姫は、いまは真尋の腕の中でぐったりと意識を失っている。躰の熱さと呼吸の速さは相変わらずで、真尋には、これ以上どうしたらいいのかわからなかった。
言われるまま診察台に雛姫を寝かせた真尋は、いったん奥に引っこんで聴診器を首にかけ、白衣を羽織って戻ってきた医師に雛姫の症状を詳しく説明した。医師は、真尋の説明に耳を傾けながらひと通りの診察を済ませると、点滴の準備をしながら言った。
「夏風邪はこじらせると厄介だからね。でも、肺炎も起こしてないようだし、そんなに心配することもないでしょ。小さな子は恢復するのも早いから大丈夫。解熱剤と鎮痛剤も入れておくから、薬が効いてくればすぐに落ち着くでしょう。あとは滋養のあるもの食べさせて、2、3日安静にしてればすぐ元気になると思うから」
「ありがとうございます。お休みのところ、本当に申し訳ありませんでした」
「いやいや、これも医者の努めだからね、しょうがない。お兄さんも随分と慌ててたようだ」
言われて、医師の視線をたどった真尋は、自分が裸足のまま家を飛び出してきていたことにそこではじめて気がついた。顔を赤らめる真尋に、医師は笑いながら立ち上がり、診察室の奥から簡易スリッパを出してきた。
「よかったら使いなさい。使い捨てだから、わざわざ返しに来る必要はないから」
真尋はもう一度深々と頭を下げ、医師に礼を言った。
「点滴は40分くらいで済むから、私はその間、少し休ませてもらうよ。なにかあれば、遠慮なく声をかけてくれてかまわないから。また終わるころに降りてくるけど、よかったらそれまで君も、そっちの隣のベッドで休んでいくといい。妹さんはもちろんだが、君も相当ひどい顔色だよ。なんだったら、あとで君にも栄養剤を打ってあげよう」
医師は、そう言い置いて病院スペースの奥にある自宅のほうへと引き返していった。
照明をやや落とした診察室に、静寂が訪れる。
静まりかえった室内に、雛姫の寝息だけが小さく響いた。その呼吸は相変わらず浅く速いままだったが、頬の赤みも先程よりはいくぶんやわらぎ、苦痛に歪んでいた表情も穏やかな寝顔に変わっていた。
深い吐息をゆっくりと漏らして、真尋は診察台の枕元に置かれた椅子に座りこんだ。
軽く開いた両足の上に肘を載せ、前屈みになった上体を支えて、そのまま両手で顔を覆う。冷たく汗ばんだ手足が、自分でも嫌になるほど小刻みに震えているのがわかった。
雛姫のことでこんなにも取り乱し、動揺している自分が情けなかった。
――おでこが灼ける……っ。ヒロ兄、頭痛いよォ…ッ!
顔を上げるのが恐い。
雛姫の額を見るのが怖ろしい。
目を逸らしても、しっかりと蓋をして重石をつけ、心の奥底に沈めても、不安という名の恐怖は執拗にその鎌首を擡げ、真尋に襲いかかってくる。
なぜ、雛姫なのだろう。
なぜ、雛姫でなければならなかったのだろう……。
閉め切った室内に、ふわり、と風が流れる。ゆるく、せわしなく、真尋の心を映しだしたかのようにひどく不安定に。
俺に、いったいなにがしてやれる―――
空調のものとは明らかに異なる不自然な微風に髪を弄ばれながら、真尋は、いつまでもその場に蹲るように座りつづけた。
投与してもらった点滴が効いたのか、翌朝、すっかり熱の下がった雛姫はいつもの元気を取り戻して真尋を安堵させた。
しかし、昨晩の苦しみようが嘘のように爽やかに目覚めると、早々に起き出して精力的に家事をこなそうとしたため、真尋は慌ててそれを制止し、布団の中に引き戻さなければならなかった。
「だってもう完全に熱も下がったし、ほんとにどこもなんともないんだよ?」
「ダァメェだ! 家のことは俺がやるから、とにかく今日は1日寝てろ。夜まで熱が上がらなかったら、そのときは起きていいから」
「えー。でも、1日中ゴロゴロしてたら、怠けすぎて牛になっちゃうよぅ」
「普段コマネズミみたいに動き回ってるんだから、ちょうど釣り合いがとれていいだろう。こんなときぐらい頑張らなくていい」
「だけどヒロ兄、今日、この後クーラーが届くんだよ?」
「設置工事なんか、たいして時間はかからん。業者が来たら、そのときだけわきに避(よ)けてればいいだろう」
今日はどうあっても布団から離れるのを許してもらえないらしい。覚った雛姫は、枕の上にがっくりと頭を落とした。
「――ヒロ兄」
「だからなんだ?」
「いっぱい心配かけて、ごめんね……」
タオルケットに頭まで潜って目だけを出しながら呟いた妹に、キッチンで雑炊を作っていた真尋は振り返った。そして、小さく息をつくと妹の枕元に来て膝をつき、乱れた布団をきちんと整えて掛けなおしてやった。ついでに扇風機の風向きも調整しなおす。
「玉子雑炊できたけど、食べるか?」
「うん」
「じゃあ、いま持ってきてやるから、そのまえにパジャマ新しいのに着替えとけ。汗びっしょりかいて濡れてるだろう」
「うん。そうする」
頷いた雛姫を見て目元をなごませ、頭をくしゃりと撫でてから真尋は立ち上がった。