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98アニメ「ひとりぼっちの○○生活」現実をみるひとりと夢みるぼっち

「ひとりぼっちの○○生活」、ギャグとしては「ヒナまつり」に匹敵し、日常系として「ぽんのみち」に匹敵する作品でした。特に五話は逸品です。

安易ではありますが、「ぼっち・ざ・ろっく!」を想起いたしまして、後藤ひとりは最後に、
「今日もバイトかあ」
と成長した様子で終わります。
対比して一里ぼっちは
「夢みたい」
と、超現実的に終わるわけです。

アリストテレス「詩学・詩論」ではより優れた者を悲劇、より劣った者を喜劇と分類しておりまして、ぼっちのストーリーは喜劇に、つまり諷刺的劇として考えてよかろうかと思われます。
で、まあ誰しも、私もなのですが、「あんな優しい砂尾や本庄みたいな友人達は現実にはいないよ」と漏らしてしまうところですけれど、「虚構」とはそうゆうものではありません。

例えば、太宰治「津軽」、私は大好きな作品なんですけど、新聞社の依頼に応えたルポルタージュなんですね。ところが、

  或るとしの春、

書き出しからもう虚構としてはじまりまして、

  「信じるところに現実はあるのであつて、現実は決して人を信じさせる事が出来ない。」といふ妙な言葉を、私は旅の手帖に、二度も繰り返して書いてゐた。

と、再三にわたり虚構である事に注意します。で、結末に、

  私は虚飾を行はなかつた。読者をだましはしなかつた。さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で行かう。絶望するな。では、失敬。

と終わるわけです。解説しますと、実際の旅行はつまらなくわびしい旅であったのかも知れません。しかし小説家として風土や人々を美しく描くのが良心であり、現実は関係ない、その意味で作者は断じて読者を裏切っていない、私は作家なのだ。と読めます。私はなんど読んでもここで泣いてしまいます。

文学を例に引きましたが、アニメも同様ではないでしょうか。砂尾も本庄もい「ない」ではなく、誰しもが描く美しき隣人、として心の弱った人々にそっと寄り添う者として「ある」、と私は考えたいのです。実在しないから、というのではなく、誰しもがもつ隣人としているのです。