見出し画像

■76アニメ「亜人ちゃんは語りたい」差異、個性、衝突

たいへんな良作だと思います。もし芥川龍之介が存命ならば推すような作品かなとつい想像してしまいました。

ヴァンパイア、デュラハン、雪女、サキュバス、が高校に入学する。彼女らは普通の女の子として、いや、むしろハンデキャップを負う者として、高橋先生を頼りながら生活をおくります。

つまりは差異。周囲はどう接し、また本人はどう受け容れるのか。大きくいえば「アイデンティティと多文化主義」とサミュエル・ハンチントンが2000年頃でしょうか、指摘した問題です。「フレキシブルアイデンティティ」、自己同一性の使い分けの事です。

ひかりが11話で言います。「もしも頑張っている人に合わせたいなら、自分も歩調を合わせたい。」

もちろん、私にはひかりの言葉がとても難しい事だと理解できます。しかし、同時にそうありたいと考え込む良心も私にはあるつもりです。

いま、私は差異といいましたが、他者との差異、違いだけを以て個性とする誤謬は避けたいと考えています。

私は個性とは属性に帰属すると考えます。市川浩が「例えば職人が長年の経験で早く正確に大量に産出できるのは癖であり個性である」といった事に触れていまして、私も首肯しています。短絡的に差異イコール個性とは思っておりません。

例えば
「ひかりは高校生になった」といえば個性であり、
「ひかりは高校生である」といえば差異であります。作中では特性といっています。

登場人物をハンデキャップ、障害の暗喩として考えた場合、私は四名のなかでデュラハンに注目したのですが、頭部を身体に括り付けて勉強する姿がとても痛ましく見えたんですね。これは健常者から観た差異なわけです。しかし本人は気にしていませんし、慣れたものですし、頭部が無くても書けますし、成績も抜群に良いんですよね。これは個性であります。つまり私が言いたいのは、特性と個性は二律背反とは考えにくい、という点です。作中ではバランスといってました。

古い言葉で「もし君が誰かに哲学者であると思われたいなら、先ず自分に聞かせると良い。それで十分である。」とあります。私はいつもこの言葉に励まされます。世界のすべての頑張る人に、この言葉を贈りたいと思います。たとえ評価されずとも、自分の輝きを失わぬよう祈ります。