78アニメ「AIの遺電子」第3話
これは、と深い感動と疑念を起こしました。傑作というより問題作といったところです。
人間のケンジくんとロボットのポッポ、人間のシズカとロボットのジョウ。ケンジくんとシズカはロボットに心を求めています。しかし、ロボットにできる事は哲学の術語でいう「判断」だけであります。
ここで私が特に注意したいのは、ケンジくんの母親の夫は再婚者、二人目の父親である点です。つまり人間の代理可能性を本作は示唆しているわけです。
私が仮に「人間とは何か?」と問われた場合ですが、生物学的に条件を満たした場合、その錯綜体の範囲を人間と定義する。と答えます。
ですので、心とは身体活動の一種であって、人間とは現象であると(現時点では)考えています。少し図式的なのですが、人間以外を判断してから人間をカテゴライズする方式です。例えばガンダムは機械であるため、人間では無い、といった括りです。
本作でケンジくんの母親が再婚している点、ロボットのポッポとヒューマノイドのジョウを区別して描いている点を考慮しますと、第3話「心の在処」という副題の意図をあらためて皆様にも再考していただきたく、筆をとりました。
ポッポはユキちゃんの遺影に「やっとあえたね」と言います。これは判断でしょうか?記憶でしょうか?私には、少なくとも判断とは思えませんでした。もし心の無いロボットポッポが遺影に向かった場合、なんと言うか想像すれば理解できるでしょう。判断しかできない、心の無いロボットは「ユキちゃんの遺影である」「ユキちゃんは亡くなっていた」と言うだけです。しかしポッポは「あえた」と言いました。
「ユキちゃんは亡くなっていた」と「あえた」との間には大きな隔たりがあると思います。例えば、ずっと探していたんだよ、ごめんねユキちゃん、などです。その間に心の在り処、ロボットと人間との違いを観たいと考えます。