福島訪問記 2021年9月(1) - 大熊町(福島第一原発所在地)
はじめに
2021年9月下旬、福島第一原発(以下、福一)の所在地である大熊町と双葉町、そして飯舘村や浪江町を訪問した。前者2町はもちろんのこと、飯舘村や浪江町も放射能汚染され、現在でも立ち入りが制限されている。その実情を、この目で確かめたくなった。
2020年における避難指示区域 - 福島県HP
https://www.pref.fukushima.lg.jp/img/portal/template02/hinanshijikuiki20200310.pdf
今回の訪問について、明確な理由や目的というのは考えつかない。
ただ心の奥底に、今年3月に福島県を訪問したときの衝撃が燻り続けていた。ガイガーカウンタが鳴り響いた時の焦燥感、無人の沿岸部や町中を歩いた時の絶望感、隔世の感というものが忘れられない。
無人の荒野に建つ東日本大震災・原子力災害伝承館(筆者撮影)
https://note.com/j_nakagawa/n/n41c712fcad6e
中々伝え辛いのだが、私は東日本大震災や原発事故の被害地が発するオーラや情緒というものに取りつかれてしまったのだと思う。
どす黒い津波に飲み込まれた、原発事故で故郷を失った、人生を破壊されてしまった、そういう方々の思いが心に響いてくる感覚があった。
「私たちを忘れないでほしい」と。
そして、もし私が彼らの立場だったときを想像したら、とても他人事とは思っていられなかった。彼ら彼女らは、2011年3月11日以前は私と何ら変わりのない市民だったはずだ。その方々が、あの日を境に人生を壊された。私が福島県や東北地方の沿岸部に住んでいたら、私もそうなっていた。
何ら責任の無い市民が、故郷や家、人間関係、家族友人の命を奪われたのだ。その悲劇が自分に起きたと仮定し、しかも、その事を世間から無視され続けたらと想像すると、黙ってはいられなくなった。
私が、彼ら彼女らの立場だったと感情移入を試みたとき、もし自分が無視されたらと思うと怖かった。なので、こうやって記事を書くのも、自分自身の為である。正義感とか、義侠心とか、そういう高尚なものではない。
理由はどうあれ、私はこれからも機を見て福島県やその周辺を訪れ続けるだろう。その度に記事を書くので、なるべく多くの人に見て頂けたら幸いだ。
東京から、いわき駅まで
東京の自宅から電車で東京駅まで向かう。
東京駅~いわき駅間で高速バスが運行されており、電車で行くよりも安上がりだった。今後はこの高速バスにお世話になるだろう。
乗車して3時間、ほぼ定刻通りにいわき駅に到着した。気持ちいい秋晴れだった、これが純粋な観光だったらどれ程良かったかと思う。
駅の近くでレンタカーを予約していたので、その店に向かう。忙しくない時間帯だったのか、店員は暇そうにしていた。
窓口で応対をしている途中、どちらまで行かれますか、と聞かれた。素直に大熊町や双葉町と答えたらどんな顔をされるのだろうと一瞬言葉に詰まったのを覚えている。私は「浪江の方まで」と答えた。嘘は言っていないが、心に靄がかかる気持ちになった。正直に言えない自分が情けなく感じたと同時に、原発事故被害者の気持ちを僅かながら理解できたと思う。
国道6号線を北上し、大熊町役場まで向かう。なぜ大熊町役場かというと、近くに復興拠点があるからだ。
新庁舎の紹介 - 大熊町
https://www.town.okuma.fukushima.jp/site/fukkou/6807.html
原発事故により、大熊町役場は会津若松・いわき等に行政機能を移していたが、2019年に大熊町内へ役場本庁舎が戻っていた。
その本庁舎の近くに、復興拠点として住宅地が建設されているので、自分の目で確かめに行きたくなった。どれほど復興しているのだろうかと。
私自身、福島県の地理感覚がないので地図を示しておく。
いわき駅から、最初の目的地である大熊町役場までのルート。首都圏を含めた広域図を下に示す。
以下が拡大地図、赤丸で囲んでいるのが福一。大熊町役場と福一は直線距離で8km程度だ。近くの見晴らしの良い場所では、福一のクレーン群が見える。
国道6号線は海岸沿いの道路なので、太平洋を眺めながら運転していた。一人で車を運転しており写真は撮れなかったが、美しく見とれてしまう風景だった。10年前、この雄大な海が突然牙をむき、大勢の命を奪ったとは信じられなかった。
大熊町役場 - 大川原復興拠点
いわき駅を出発して1時間、大熊町役場に到着した。
広大な敷地に新築の庁舎が建っている。整然としており、大金が投入されたのだと一目で分かる。実際に、27億円が新庁舎建設に投入された。
福島・大熊で新しい町役場が開庁 8年ぶりに町内で業務 - 朝日新聞
https://www.asahi.com/articles/ASM4F6RQJM4FUGTB00M.html
訪れたのは休日で、職員はおらず閑散としている。僅かな住民と工事業者がいるばかりで、工事音と車の走行音、鳥のさえずりが時折聞こえてくる。
この役場周りを歩いてみることにした。
町役場の向かいにある居酒屋、ダイニング大川原。大川原はこの一帯の地名だ。
次は、ダイニング大川原の少し先にある福島県警の臨時駐在所が目に付いた。敷地に放射線量のモニタリングスポットが設置されている。この時は0.137マイクロシーベルト毎時(以後、μSv/hと表記)を示している。
数値として特別高くは無い。ただ東京では0.05~0.10μSv/hなので、それよりかは僅かに高い。しかも除染しての数字であることを注記しておく。
駐在所の道路向かいにある、現場事務所。
大林組の東北支店が元請けで公共工事をしている。福島県に限らずだが、地方を車で回っていると、公共工事が地域の雇用に不可欠な存在であると身をもって感じる。
来た道を戻り、大熊町役場から東に進む。
商業施設「おおくまーと」が見えてきた。道の駅の規模を小さくした見た目で、飲食店やコンビニ、コインランドリが入居している。
観光客を迎える道の駅の要素と、地域住民の生活拠点としての役割があるのだろう。
おおくまーとを通り過ぎると、住宅地が見えてきた。
ところどころ洗濯物が干され、家の中からテレビの音が聞こえる。
ここからは住宅地近辺の写真を掲載していく。
住宅地内の共有スペース。中を小川が流れている。
車やバイク、自転車が停まっており生活感が漂う。
本数は少ないが、大熊町や富岡町に向けてバスが出ているようだ。
少し離れた藪の近くで放射線量を測る。
0.13μSv/h を示している。除染はされているようだ。
住宅地を一周し、おおくまーとに戻ってきた。休日の昼であったが、人は疎らだ。
大熊町役場周辺は歩き終わった。廻ったところをグーグルマップで確認しておく。
ここを廻った感想だが、確かに人が住んでおり、生活実態がある。この一帯だけ見れば、復興している様に見える。ただ今までの経験から、絶対に裏があるなと思った。
大熊町役場を後にし、車で数分程度の距離にある空き地に車を停める。
産業廃棄物の集積場のようだ。この近くで放射線量を測ってみる。
胸の高さ、地上から1.5mの高さで0.64μSv/h。
側溝に放射線量を置くと1.02μSv/hを示す。東京が0.05~0.10μSv/hなので、その10倍~20倍の放射線量である。人が住める環境ではない。
正直こうなるとは予想していた。ただ写真を見る度にげんなりしてしまう。
大熊町役場周辺が0.13μSv/hだったので、放射線量には5倍~8倍の違いがある。繰り返しだが、車で数分の距離には復興拠点があり住民が住んでいる。
これが役所や国のいうところの「復興」である。
次は大熊町の町中に入る。
大熊町内
大熊町に入ったが、車を停められる場所が無かったのでグルグル回る。
適当な空き地を見つけたが、その前には大熊町立大野小学校(廃校済み)があった。福一からは直線距離で5kmの位置にある。
警備員が出入りのために、門を少し空けていた。私が門を開けた訳でも、校内に入った訳でもないことはご認識願う。
胸の高さで放射線量を測る。0.45μSv/hなので、東京の5倍~10倍程度だ。
放射線量計を収め、校内を見てみる。雑木が生い茂り、廃れた印象は受ける。だが、休校中の小学校とも言われても信じてしまいそうになる。
音楽室、音楽倉庫なのだろうか。マーチングバンドが使うような太鼓が見える。
後で調べると、今年6月、当時の在校生や保護者が校内に入り学用品を持ち出したそうだ。在校生が当校を訪れるのはこれで最後になる。
2022年に校舎は改修され、ベンチャー企業等の拠点になるそうだ。
当時、在校生は420人いたが、彼らの母校は未来永劫戻ってこない。
10年ぶりの教室、黒板に名前書き最後の別れ 福島・大熊町大野小 - 毎日新聞
https://mainichi.jp/articles/20210611/k00/00m/040/240000c
大野小学校の写真を撮り終えると、上空からヘリコプタの音が聞こえてきた。消防ヘリか報道ヘリなのかは分からないが、進行方向には福一がある。
ヘリコプタが見えなくなった後、大野小学校の周りを歩く。
まず見つけたのは、おおの児童館だった。
児童館は、0歳から18歳未満までの子どもが自由に遊べる公共施設だ。
児童館・児童センターについて - 福島県HP
https://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/21035b/jidoukan.html
あの日以前は、大野小学校から帰宅中の児童や、近くの中学高校の生徒が一緒に遊んだり、学び事をしたりしていたのだろう。
当然だが人影は皆無だ。
おおの児童館のフェンスに放射線量計を置くと、0.32μSv/hと表示されている。東京の3倍から6倍の数値だ。
おおの児童館から大野小学校までの道路を戻る。
雑草で埋め尽くされた歩道が、行く手を阻むようだった。
車に乗り込み、大熊町の中心部へと向かう。
県道251号線、並木道に車を停める。
通りの向こうには立ち入り制限用のゲートがある。251号線は工事業者の車両が行き交い、思ったよりも交通量がある。ただ歩行者はほぼいない。
県道251号線を東へ向かって歩く。
住居跡なのだろうか、壁だけが残っている。無機質なフェンスを見ると、いつも不気味な気持ちにさせられる。
無人の郵便局。日光で色あせたポスターが年月を感じさせる。
郵便局の一軒先にツルハドラッグ大熊店跡地があった。割と有名な場所だったと記憶している。
駐車場は雑草に覆われ、人の手入れはされていないことが直ぐわかる。
ツルハドラッグの敷地を出て、放射線量計を取り出す。
0.71μSv/hなので、東京の7倍~14倍の値だ。人の住める環境ではない。そしてその通り、住民は避難し、今も戻ってきていない。
ツルハドラッグ横の生活道路に警備員が立っている。
彼らは軽装で、長時間ここにいるはずだ。放射線管理はされているだろうが、心配になる。そして、この危険の対価として彼らは幾ら報酬を受け取っているのだろうかと思いを巡らせる。
旧大熊町役場に来た。
来て丁度、この旧町役場から立ち入り制限区域に関する放送が聞こえてきた。ただ誰が放送をしているのだろうかと疑問に思っていたら直ぐ解決した。
フェンス前に警備会社の車が停まっており警備会社の関係者が放送を流している様だった。そして放送が終わると役場から人が出てきた。
町役場の直ぐ東には、警備員が何人か立っており、不思議そうな目で私を見ているのがわかる。行き止まりなので引き返す。
251号線を西に進み、県道166号との交差点を左に曲がる。
まず見えてきたのは住宅兼農園の関本農園だった。看板はさび付いており、もう少し年月が経てば文字も判別できなくなるだろう。
調べてみると、この関本農園を経営していた方々は千葉県に避難し、今でも梨を栽培されているそうだ。こういう記事を見たら、幾ばくか心が救われる気持ちになる。
ふくごはん 第24回 〜たとえ場所が変わっても、俺が作れば“大熊の梨”〜 ㈲フルーツガーデン関本 代表 関本信行さん(大熊町)
http://fuku-gohan.net/words/129
そのまま県道166号線を南下すると、左手にヨークベニマルというスーパーが見えてきた。
ただ駐車場に居るのは客の車ではなく工事車両だ。
駐車場跡地を利用し、スクリーニング場になっていた。
写真を見返すと、やはり異様な光景だ。
更に県道166号線を進む。
放棄されたコイン精米機。
更地の果樹園跡地。
工事業者の現場事務所。
写真を撮ったのは16時前。立ち入り制限区域の閉鎖時間が近づいており、商用車やトラック、作業員の車が事務所前の駐車場に入ってきていた。
グーグルマップで確認するとこの辺りだ。
現場事務所の近くを通っていると、作業員同士の会話が聞こえてくるが、次のフレーズが心に残っている。
「汚染水じゃないから大丈夫!」
車の陰に隠れており、シチュエーションは確認できなかった。
自販機の水を奢っているのか、水をかけてふざけあっているのか。
ただ、ここの作業員にとっては放射能汚染された地面や建物、水というのは日常になっている。非日常の現実が日常になっている、人間の慣れというのは凄いものだと思った。
その現場事務所のすぐ近く、住宅地の一角に入った。
住宅や車は日光に晒され、一部が変色している。
10年前の車検シート、植物に吞み込まれた車やブロック塀を見る度に、ここは廃墟なのだと実感する。
このまま歩いていくと車から離れすぎるので、来た道を引き返す。
車に戻り、JR大野駅の西側にある福島県立大野病院の通りを歩くことにした。
大野病院はフェンスで封鎖されている。
大野病院前の道路に、大熊町生活循環バスが走っていた。乗客は一人か二人ぐらいしか見えなかった。
交差点には警備員がおり、たまにこちらへ視線を向けてくる。
もし、警邏中の警察官や警備員に話かけられたときは
「廃墟マニアで写真を撮っているだけなんです。」
と答えようと考えていた。
放射線量計を取り出す。1.44μSv/hなので、東京の15倍から30倍である。
そのままJR大野駅まで向かう。
大野駅に近づくにつれ、ゲートが多く目に付くようになる。JR大野駅に通ずる道以外は封鎖されている。
ここで奇妙な感覚に襲われた。
私はゲート外にいるはずなのだが、実はゲート内にいて、一生外に出られないのではないかと錯覚した。一瞬、方向感覚を失った時、ゲート内に閉じ込められたと、この無人の町に取り残されたのではと焦った。
一人で行動していたから、通行人や車もいないから、薄暗くなり始めていたから、虫のさえずりだけが耳に入るから、本気でそう思った。
勿論それは杞憂なのだが、この地域が日本国内にあること自体が薄気味悪い。
勇気のある方は、夕方以降に是非ここを一人で訪れてみてほしい。お化け屋敷や絶叫系のアトラクションでは体験できない不気味さや恐怖が味わえると思う。
話を戻す。
世界に私は一人なのだという孤独感や不快感を覚えながらも歩き続けると、JR大野駅が見えてきた。
モニタリングスポットが見えたので、持参した放射線量計と値を比べてみる。
モニタリングスポットの値は0.263μSv/h。
持参の線量計は0.25μSv/h。
値の差が少ないようで安心した。当方の線量計は値が安定しない時があるので、不良品なのかと疑ってもいたが、大丈夫なようだ。
駅周辺ということもあり除染されているだろうが、それでも東京の2.5倍~5倍の数値だ。除染しても、人間が生活するには適していない。
駅のホームに入る。待機所に一人だけ乗客がいた。カメラを撮りまくっている私を見て、「こいつは何をしているんだろう。」という顔を向けられる。
自販機の稼働音以外に音は聞こえない。注記しておくが、訪問したのは休日の夕方である。
駅周辺の写真を撮り終わったので、ホームを抜け、JR大野駅の東側出口に出る。
駅東側出口も、駅に通じる道以外は封鎖されているようだ。
歩道で放射線量計を取り出し測定する。1.16μSv/hなので、東京の10倍~20倍程度である。
レンタカー返却時間が迫っていたので、来た道を引き返し、大野駅西側を少しだけ回る事にした。グーグルマップでいうと、このあたりだろうか。
写真を幾つか載せておく。
何れも復興という言葉とは正反対の現実だ。度々、気が滅入って腰を落としそうになる。
日が落ち始めていたので、いよいよ帰る事にした。
疲れてさっさと帰りたい、ただ、もっと現実を見て回りたいという両方の気持ちが混在し、良く分からなくなってきた。
どちらにせよ、暗くなってくると写真が取れなくなるので帰るしかなかった。この日の訪問はこれで終わりとなった。
まとめ
前回(下記リンク参照)に引き続き、2回目の福島県訪問となった。
素人の福島被災地訪問記
https://note.com/j_nakagawa/n/n41c712fcad6e
今回も、まざまざと現実を思い知らされた。
放射線量計の数値を見たとき、無人の町や道路を進んでいるとき、放射能汚染地帯内の僅かな一角に綺麗な建物が見えたとき、表現し辛いが不快な心情になる。
こんな現実が、東京から車で数時間の距離にある事が信じられない。
あと放射線量計の数値を見ても、あまり驚かなくなった。1.0~2.0μSv/h程度の放射線量で怖がることは無くなった。
ただ自戒を込めての事もあるが、この2.0μSv/hという数値は危険と表現するしかない。
(放射線)管理区域という、原発構内や病院のX線検査室等で用いられる管理区分が法律により定められている。
まず部外者はこの管理区域内に立ち入る事はできない。厳格な入退場管理と放射線量管理を施され、教育も受ける必要がある。特別に健康診断も受けなければならない。
管理区域内で働くためには、法令で定められた健康診断および放射線管理に関する教育を受ける必要があり、管理区域内では受けた放射線の量の確認、管理区域から退出するときは身体に付着した放射性物質がないことを確認するなど厳重な放射線管理が行われています。
原子力発電所の放射線管理 - 電気事業連合会
https://www.fepc.or.jp/nuclear/safety/kanri/
その管理区域内で、週5フルタイムで働いた時の平均放射線量が2.5μSv/hということらしい。
放射線に関する法律と放射線の管理 - 安全衛生情報センター
https://www.jaish.gr.jp/information/bousai11gatu.pdf
この放射線量は飽くまで目安である事は認識しておく必要がある。だが事実として、管理区域内とそう変わらない放射線を放っている地域が確かに存在する。
そして、その危険地帯に、私の様な野次馬が軽装で立ち入れる。場所によっては、その放射能汚染地に住んでいる人もいる。
これがもし東京や大阪の都市部だったら、自分の住む地域がそうだったら、どう思われるだろうか。
ここから先は、各自が考えるべきことと思っている。
おわりに
今回は複数日に亘り福島県を訪問した。
本記事で書いた大熊町以外には、双葉町と飯舘村等を訪問しているので、近日中に記事を書くつもりだ。
放射能汚染地帯の地理については、以下の通りなので参考にして頂きたい。
(再掲)
2020年における避難指示区域 - 福島県HP
https://www.pref.fukushima.lg.jp/img/portal/template02/hinanshijikuiki20200310.pdf
少し前まで、この残酷な現実を知らなかったし、知ろうともしなかった。
己の無知を恥じると同時に、事実を知れたことを幸運に思うようになった。
そして、この現実を知らせようともしないメディア、数字や言葉を恣意的に操作する自治体や国に怒りが湧いてくる。
同時に、その裏返しとして、新聞購読料や視聴率という点でそのメディアの維持に貢献し、政治的無関心という点で既存の政治体制を惰性的に続ける事になったのは我々国民である事に気づかされる。それが無意識で、かつ、消極的であるにせよ。
私も、メディアや自治体、国の責任は厳しく問うべきだと思っている。
ただ、それらを無関心という言い訳で放置してきたのは我々ではないか。
メディアが報道してくれないから、学校や大学、親や先輩が教えてくれないから、だからしょうがない。
ただ現実的に、そんな言い訳は通用しない。被害を負うのは国民自身だからである。知らなかったでは済まされない。
知りたくない現実でも、勇気を振り絞って直視するしかない。
知っているだけでも「まだマシ」だ。
国民が積極的に知ろうとすることが公権力の監視に繋がり、テレビや新聞を消費せず不買という行動に出ていれば、メディアの新陳代謝に貢献できたのではないか。
昔からそうしていればこの悲劇は起きなかったのではと、今さらどうしようもない事を考えてしまう。
もう一つ、記事を書いてて思うのだが、福島訪問は私の「何か」を変えた。
数万円を自費で出し、数日間の時間をかけてでも、現実を知りたいと行動するようになった。
私自身、理系出身ということもあり文章、特に長文を書くのは苦手で忌避していたが、こうやって自発的に記事を書くようになった。(今回の記事だと9000字弱なので、原稿用紙20枚以上だ。)
私が訪れた一帯には、今までに示した巨大な現実と共に、人を引き寄せる「何か」があるのではと憶測している。
part2 に続く。