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素人の福島被災地訪問記 無人の双葉町~伝承館~津波で壊滅した沿岸部

はじめに

 2021年3月中旬、福島第一原発(福一)の所在地である福島県双葉町を訪問した。
 きっかけは単純で、東日本大震災から10年という節目を迎えたこと。福一に関する書籍やネット記事も読んでいたので、それに感化されてということもある。
 初めに断っておくが、私は素人だ。原子力学科出身でも、地質学者でも、何らかの専門家でもない。

 この記事はその素人が書いた訪問記録であるが、私が最も伝えたいことから先に書く。
 被災地、とりわけ原発近くの場所ほど復興などしていない。復興という単語を辞書で調べればわかるが、復興とは元通りになることである。英語にするともっとわかりやすい。
 復興は英語で reconstruction である。re(再び) + construction(建築)という通り、再構築すること、つまり元に戻すことだ。
 被災地の場合でいうと、原発事故前の状態になることが復興である。以上の事を踏まえ、時系列順で福島訪問の記録と私の所感を書いていく。

往路

 訪問当日、双葉町へは鉄道で向かう事にしていた。レンタカーでも良かった。ただ、鉄道で向かう時に放射線量が高くなるという記事を見て、自分自身の手で測ってみたくなった。

捕捉:2020年3月、JR常磐線が全線開通したことにより、福一の最寄り駅である双葉駅も一般乗客がアクセスできるようになった。

 事前にAmazonで放射線量計を買って持ち込んだ。中国製で説明書は読めなかったが、最低限の使い方は把握できた。1万円もしたが、個人用線量計としては普通の価格帯らしい。
 持ち物として特筆すべきはこの線量計ぐらいだ。他はカメラ、旅行用のカバン、着替えなど軽装だった。

 前泊していたホテルを出て、いわき駅で乗車する。

 

 

 

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しばらく電車に揺られる。ひたすらにのどかであった。本当に、この先に福一があるのかと疑ってもしまった。乗客はまばらだが、時折原発の話が聞こえてくる。みんな関心があるのだろう。

 富岡駅に着いたあたりから線量計を取り出して計測を開始した。年間の許容被ばく量が1ミリシーベルトなので、1時間あたりに直すと0.11マイクロシーベルト(0.11μSv/h)であることは特筆しておく。
 早速だが、計測結果を示す。単位は何れも μSv/h で瞬間最高値を記録した。

参考)東京の自宅で、0.10前後
富岡駅 0.18
夜ノ森駅 0.25
夜ノ森駅~大野駅間 0.3
大野駅~双葉駅間 0.7

 富岡駅で線量計を取り出した時、微妙に上がっていたのは気づいたが、まだ平常心でいられた。ただ夜ノ森駅から大野駅、大野駅から双葉駅と福一に近づくにつれ、どんどんと値が上昇していく。
 全身の筋肉が硬直し、悪寒を覚えた。脂汗もかいていたかもしれない。事前に、放射線の知識は素人ながらに学んでいたから、余計に怖くなった。
 どのぐらいの値を線量計が示すかは、予めわかっていた。それでも怖くなった、線量計が指し示す数値は本物だ。その本物の現実に、私はいる。その現実が怖くなってしまった。

 乗客は福一が近づいてくると席を立ち、福一の方向を眺めている。ただし、その顔色は恐怖心ではなく、興味本位のように見えた。私と乗客、その感情のギャップに空虚なものを感じてしまった。

双葉駅着

 双葉駅に到着した。降りて直ぐ、フェンスの向こうに黒いフレコンバッグが石垣の様に積まれていた。そのフレコンバッグに「さあ、双葉町の未来をはじめよう。住宅用地造成中。」という言葉が見えた。

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 グロテスクだった。
 あの黒いフレコンバッグは、もしかして汚染土が詰め込まれているのだろうか。表面に書かれた無機質な数字がなんとも言えずに不気味だ。
双葉町には一人も住民が帰ってきていないのに。
 邪念が幾つも頭に浮かんでくる。考えても仕方ないと階段を上り改札機に向かった。

 駅のホームは小さいが綺麗に整備されている。間違いなく、最近になって建て替えられたのだとわかった。Suicaも使え、自販機や電子案内表示も機能している。ただし、駅員室は無人であった。小さくはあったが、無人駅とは思えない大きさなので、駅員が逃げ出した様にも見えてしまう。

 ホームには東京五輪のポスターが貼られていた。2021年3月25日に双葉駅前の広場だけを、ぐるぐると走っていたそうだ。滑稽と思った。

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 駅舎から出ると、小綺麗な駅前広場が広がっていた。

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 広さの割りに人は疎らだった。ほとんどが同じ電車に乗ってきた観光客(と表現していいかは悩んだが)だった。
 振り返って、駅舎を見てみた。やはり立派だ。素人目線ながら、お金がかかっていると見て取れる。しかも新しい。

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被災地巡回開始

 駅を見渡した後、近くに設置されていたレンタル自転車を借り、漕ぎ出す。まず見つけたのが、双葉駅から歩いて1分の薬局だ。

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 これが現実か、と来て早々に思い知らされた。店員や客はいない。内装と外装共に朽ち果て、前にはフレコンバッグが置かれている。マスコットキャラクタの人形が物哀しい。
 繰り返すが、双葉駅舎から歩いて1分の場所だ。写真の向こうには駅舎がある。こんな光景を、これから否応なく見せられるのかと、足取りが重くなった。ペダルに足を乗せて無人の道路を進む。

 郵便局の看板が見えたので、自転車を降りることにした。

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 近くの信号も生きており、工事用と思われるトラックも止まっていた。傍の道路も通行量は少ないが、車も走っている。一見すると、改装中または閉店中の郵便局と想像できる。ただ私がそう思いたかっただけかもしれない。

 よく観察するとドアはベニヤ板で封鎖されている。掲示板はシートで覆われており、カーテンの中を覗いても局員や客、工事業者すらいない。
 遠目から見ると、良くある地方の風景だと思ってしまう。ただ少しでも近づくと、ありのままの現状がそのまま脳裏にインプットされる。この後も、この様な光景を何度も目にすることになる。

 次に見えたのは双葉町役場だった。

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 小綺麗な建物だと感じた。私は職員出勤前の役場に来ているのだと、錯覚しそうになる。建物向かいに時計があったので見てみる。

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 2時46分。元凶である地震が起きた時刻である。
 時計は止まったままで修理されていない。より正確に言うならば、この役場、この地域、双葉町が10年前の3月11日のままなのだ。

 もう少し、役場周りを歩いてみることにした。
 裏手に駐車場があり、数台の乗用車が枠内に綺麗に停められていた。古臭そうだが、高そうな車が特に気になった。

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 送迎用の公用車なのだろう。中にはヘルメット、長靴も見える。地震が起き、見回りや警戒呼びかけの為に職員が準備していたのだろうと想像した。今にでも役場から職員がこの車に乗り込みそうな気配さえした。「大地震だ。すぐに出るぞ。」と。
 じろじろ見ていると、「よそ者が何しているんだ」と後ろから注意されそうな感覚さえあった。
 役場周辺に限れば地震や津波の影響はさほどでもない、ただそれ以外の要因でここから人が離れざるを得なかったのだと理解した。

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 よそ者が他人の生活圏の役場に勝手に入り込んでいる。後ろめたさを覚えたので移動することにした。

 自転車で数分、目に留まったのはフレコンバッグにシートがかけられた一帯だ。

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 近づいてみるとフレコンバッグは意外と大きい、人の背丈ほどはある。
 以前、化学工場で働いていた時に良く見たそれだった。確か、1トンか2トンぐらいは原材料が入ったなと思いだした。
 ただ中身は想像に難くない。放射性汚染物質である。それが数十メートル四方、4層程に積み重ねられている。この区画だけで汚染物質が数千トン以上はあるはずだ。

 怖くもなったが近くに行き線量計を置いてみる。仕事でも何でもない、自費で来てわざわざ危険を冒すなど、自分自身が馬鹿に思えてきた。

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 立ち入り禁止用のネットまで近づき、地面に放射線量計を置いた。瞬く間に値が上がっていき警報音が鳴る。背筋が凍った、逃げ出したくなったのを鮮明に記憶している。数値の上昇が止まり、画面を見た。
 画面の上の数字が2.50マイクロシーベルト毎時を示している。(下の数値は、直近何分間かの平均値だったはず。)

 この地に1年間留まると、許容量の25倍の放射線を浴びることになる。
 その危険地帯に、軽装の一般人が立ち入りできている。この現実が面白おかしい。言いたい事は山ほどあるが、筆を進めることにする。

伝承館訪問

 次に立ち寄ったのは、東日本大震災・原子力災害伝承館(以後、伝承館)だった。2020年9月になって出来た伝承館は立派な建物だった。頻繁にバスや乗用車が駐車場に出入りし、家族連れやカップルの話し声が耳に入る。

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 この場所だけに限ると、平和そのものだった。
 ただ話が前後して申し訳ないが、伝承館へ来る途中の写真を幾つか載せておく。

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 これらの写真は伝承館から自転車で数分、数百メートルの範囲で撮ったものだ。住民の姿はなく、見渡す限りの更地と廃墟が点在するのみだ。恐らく、津波でほとんどが押し流されたのだろう。震災前から人口過疎地であるとは言え、少し内陸部に行くと建物は幾つか見える。海岸近くの場所だけ、更地が広がっている。

 特に一番下の写真、カーブミラーが倒れたまま放置されている。その向こうには伝承館(真ん中左の建物)が見える。そのすぐ横にはホテルを建設中で工事をしていた。
 この写真を撮った時、ふと笑ってしまった。

 この風景のどこに復興したと言える要素があるのか。
 伝承館で無邪気にはしゃいでいる家族連れを見たときのことだ。
 「すぐ横には本当の現実が入館料を払わずとも見れますよ」と言いたくなった。伝承館に続く、綺麗に整備された道路の直ぐ隣には無人の荒野が広がっている。観光客である乗用車の運転手や同乗者の幾人かは興味ありげに外を見ているが、途中で降りようともしない。
 観光地として、この双葉町、被災地を消費すれば彼らは満足なのだと直感した。

 そして、何らかのきっかけがなければ私も彼らと同じであることを思い知った。この10年間、被災地の事はほとんど気にも留めなかった。偶然見たYoutubeの動画さえ無ければ、今でも私は無関心だっただろう。無関心を貫いてきて知ろうともしなかった。毎年3月11日前後になると時事ネタとして、話題の一つとして、消費して終わりだった。
 自分が恥ずかしい。ただ、恥ずかしいという自分を知覚できているだけ私は救われているのかも知れない。

 話を戻すと、伝承館には入った。入館料を払い展示物は見たので幾つか掲載する。

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 いろいろあったが、伝承館の伝えたい事はわかった。

 原発事故は起きてしまったが、みんな頑張った。高度成長期の日本の電力需要を賄った。みんなその恩恵に預かっている。復興は途上ですが、これからも頑張っていきましょう。

 むなしくなった。これ程わかりやすいプロパガンダもない。
 原発事故収束の為、みんな頑張っているんだという既成事実の追認。当事者意識の希薄化。
 日本の電力需要を満たしたという、原発事故の何の理由付けにもなっていない謳い文句。
 復興はほとんど進んでいない(所在地である双葉町は特に)のに、未来の展望は明るいのだという不気味な程のポジティブシンキング、現実の隠蔽。

 共通しているのは、原発事故を矮小化しようとしていることだ。伝承館の中に居続けるのが苦痛だったので、すぐ出ることにした。

 新築の香りが抜け切れていない、整然たる、美辞麗句の伝承館。
 百貨店みたく丁寧な対応の伝承館職員。
 純真無垢な子供と家族連れ、老人夫婦、カップル等の観光客。

 周りに広がる、津波で壊滅した原発事故で無人の荒れ野、廃屋。
 実際に自分で測った放射線量、背筋が凍った経験。
 上記に示した写真の数々、現実。

 この対比が面白おかしく、不条理で、苦々しい。ただ、伝承館の横にあった建物で食べたランチは旨かった。

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 スペシャルランチを頼んだ。運動後という事もあって、非常に美味しく感じられた。食堂はレストランみたいで、何組かの老夫婦、子供づれが食事を取っていた。場所さえ違っていれば、微笑ましいと一言で片付けられたのに。

 昼食を取った場所から伝承館を眺める。

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 視線をずらせば、津波で壊滅した沿岸部が眼下に広がる。来館者は必ずこの風景を目にするはずだ。

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 昼食を済ませ、伝承館から北にある沿岸部を回る事にした。なぜ北かというと、南は原発事故で立ち入り禁止になっているからだ。

 ここからは、写真をメインにし、解説だけに留める。百聞は一見に如かず。私の拙い文章より、写真だけを見てくれた方が、現実をそのまま吸収できると思う。

 JAの貯蔵庫らしき施設。事前知識無しだと、早朝でまだ人が来ていないだけだと錯誤してしまう。

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 伝承館に続く、整備された道路。奥には荒地が広がる。

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 津波が押し寄せてきた時、避難場所になったと想像できる高台に、神社があった。

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 上って見渡す。
 荒地と廃墟、ソーラーパネル。工事業者以外、人の気配は無い。

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 沿岸部の道路に出た。整地されてはいるが、工事業者以外に人影はない。一面の盛り土、防波堤、電信柱。それが地平線まで続く。

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 少し進むと、廃棄物置き場が見えた。フェンスの向こうに、家電、現場事務所、フレコンバッグ等が見える。これらの廃棄物は少なからず放射能汚染されているのだろう。

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 廃棄物置き場に、震災遺構である請戸小学校跡地があった。津波で壊滅したと傍目でも分かる。何人の児童と教職員、保護者がここを思い出として記憶しているのだろう。

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 請戸漁港に出た。人を何人か見かけたので、理由は分からないが安心した。ただ人口密度は恐ろしく低い。

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帰路

 ここらで電車の時間が迫ってきたので、双葉駅に引き返すことにした。今まで見てきた光景を反対の角度から再度眺めつつ、潮の香を嗅ぎつつ、あの小綺麗な駅舎まで向かった。
 帰路の途中も写真を幾つか撮ったので載せておく。

 無人の幹線道路を歩くキツネ。何かを咥えていて、野生を感じさせた。

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 毛細血管のように植物の根が張った、双葉保育園。双葉駅からは徒歩数分の距離にある。

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 双葉駅に到着した。

 久しぶりに自転車を何時間も乗っていたので太ももが痛い。けどどうでも良かった。電車に乗ってからは寝ていて記憶があまりない。初めての被災地訪問は、悪い意味で期待を裏切られた。

訪問を終えて

 自身の足と目で確かめた現実は、恐ろしく巨大で、私の脳では処理しきれなかった。なぜお金を払ってまで、この残酷な光景を脳に焼き付けたいと思ったのか自分でもわかっていない。
 ただ、この現実を忘れたら、放棄したら、見て見ぬふりをしたら。そちらの方が怖くなってしまった。

 伝承館の虚飾、市井の人達の無関心、放射線量計のアラート音、津波に流されたままの沿岸地域。初めて湧き出る感情が源泉の如く溢れてきた。
 この様なインパクトを受けたのは人生でそれほどない。

 20年前の子ども時代、2機の旅客機がニューヨークにあった双子の超高層ビルに突っ込んだ時、世界が終わるのだと本気で思った。ノストラダムスの大予言が、少し遅れて実現するのだと。

 その時ほどの衝撃があった。勿論、衝撃のベクトルは違う。
 ただ、今回は画面越しではなく自分の五感そのまま、フィルタ無しで事実を吞み込んでしまった。沿岸部にある、無人の地平線まで続く道路を進んでいるとき、世界で私は一人なのかと真剣に考えた。

 一生忘れない、忘れられないと痛感した。
 同時に、忘却してはならないと一種の義務感を覚えた。その義務感が、この記事を書くに至った経緯である。

 訪問したのは半年前なので、時間が経ってしまったのは悔やまれる。noteで書こうという事を思いつかなかった。ブログを立ち上げても良かったが、ドメイン管理やサーバ管理で面倒くさい。noteで記事を書けるのを知ったのは良かった。

 これからの事だが、今後も福島に行ってみようと思う。時期が時期故に、気軽に訪問するという事は出来ないが、近いうちに行くつもりだ。また記事を書くと思う。

 皆さんにお勧めしたい事だが、一度で良いから福島の被災地を訪れてほしい。自治体や政府、東京電力が発表している公式資料やホームページと、現実を見比べてみてほしい。
 どう感じるかはその人次第だが、それらの対比が笑えてくるし、どうしようもなくシュールでグロテスクだと感じるだろう。

 ただ原発付近だと、多少なりとも被ばくしてしまうので、長時間の滞在はしないで頂きたくないのが歯がゆい思いです。
 あとお金に余裕のある方は、放射線量計を持って行ってください。画面の指示値が徐々にあがり冷や汗をかく焦燥感と不安、アラート音が響いた時の体の硬直。あの感覚は絶対に忘れられないと思います。

 そして、そのような危険地帯に軽装の一般人が気軽に立ち入れてしまうということ。その危険地帯を1日に何回も往来する電車が、東京にも来ているということ。

 調べれば調べるほど、現実に絶望すると思われます。大多数の人にとっては、知りたくない現実だし、受け入れたくない、どうでもいい。しかし、その現実を知っているのと知らないのとでは大きな違いがある。現実を認識できているだけ、「まだマシ」だと私は信じています。

 最後、冒頭にも述べたことを再度言うことにします。

 被災地は復興などしていない。

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j_nakagawa
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