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父が逝去しました

 さる2023年1月25日朝、かねてからがん療養中だった父が亡くなりました。83歳でした。


やさしい父でした

 胃がんの告知を受けたのが昨年4月、開腹手術で腹膜に転移し播種となっていることがわかり、手術で取り切るのは不可として、そのままお腹を閉じました。抗がん剤治療を試みましたが、体調を崩して寝込んでしまい、これでは生きていても、ただ苦しみながら衰えていくだけで、人生の最後の時期のQOL(クオリティ・オブ・ライフ)の維持はまったく見込めない、という判断から、父は治療をやめ、がんとともに生きていく決意をし、旅行やコーラスなどを存分に楽しむ日々を送ってきました。

 食が細くなり体力もかなり衰えましたが、それでも毎日の散歩を欠かさず、無事お正月も迎えられ、父は自分の干支の卯年、年男としてこの一年を生きたい、と念頭に思いを語っていましたが、1月16日に肺炎により入院、回復して退院したら、自宅で最後の看取りをしようね、と母と決断しておりましたが、25日朝に急変し帰らぬ人となりました。

父が亡くなった、大津市民病院の病室から。その日は雪でまちは真っ白でした。

 教会で行なった召天告別式にて、お話させていただいた、父をしのぶ言葉を以下に掲載いたします。

しのぶことば

 ものごころついた頃から、父は私にとって、できが悪くても失敗しても、それでも「よし」と言って笑って受け止めてくれる存在でした。
 仕事が忙しく、とくにオイルショックの頃は、会社が定時を過ぎると電気が消えてしまう、といって、家に図面を持ち帰り、遅くまで仕事に没頭していましたが、そんなとき、父が図面を広げる横で宿題をしていると、それを見て、答えがあっていると笑顔、まちがっていると悲しい顔、そんな表情で教えてくれたことを、よく思い出します。
 こんなことがありました。私は小さい頃から絵を描くのが大好きで、家で仕事をする父のとなりで絵を描いていたことがありました。
 描いていたのは女の子の絵だったと思いますが、小さな子供がよく描くように、人の手の5本の指を、くねくねっと一本の線で花や雲のような感じで描いていました。すると、それを見た父が、こんなふうに言いました。
 自分の手の指を見てごらん。指には2つ関節があって、折れ曲がるようになっているんだよ。
 その言葉で、私は、ほんとうの姿をとらえて絵を描く、ということを教えてもらいました。それと同時に、自分はこう思っているけど本当はどうかな?と、ものの本質をよく見ることの大切さを教えられた気がします。
 父は仕事で単身赴任していた期間も長く、10代、20代の頃はあまり日常的に接することができませんでしたが、カセットテープやビデオテープなど、当時の最先端の製品の素材づくりに携わっている、ということに誇りを感じていました。
 海外赴任で父が母とともにアメリカに住んでいたとき、留守を守っていた私と妹とで「犬を飼いたい」と思い立ち、電話で許可をもとめたことがありました。
 そのとき、母は「犬が家具を噛むからダメ」と、すごい剣幕で反対しました。一方父は「犬が一番幸せだと思うようにしてあげなさい」と、賛成も反対もしませんでした。それを良いように解釈して、私と妹は、小さい頃からの憧れだった、犬を飼いはじめたのですが、振り返ってみると、犬の幸せを一番に考えてあげなさい、というその父の言葉は、そのまま、父の生き方そのものを言い表していたように思います。

1999年4月、琵琶湖畔のなぎさ公園にて、愛犬チャーリーと父

 今回の父の入院は、退院したあと自宅で最期のときを過ごせるように体調を整えるためのものでした。容態が急変し、それは叶いませんでしたが、長く自宅で伏せって、母や娘たちに大変な思いをさせたくない、という父の、自分よりもまわりの人の幸せを願う気持ちのあらわれだったのかもしれません。
 本当に、父は病に打ちひしがれることなく、自分の思うまま、人の幸せのために最期まで精一杯尽くして生き切った、と感じています。みなさんの祈りに支えられ、父は人生を最後まで楽しみ、まっとうすることができました。本当にありがとうございました。

1月27日に教会で行なった召天告別式


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