納豆は源氏とともにあり?
日本100名城・続100名城をめぐって全国を旅していると、思いがけないものに出会うことがあります。「納豆発祥の地」の碑もその一つです。
青森の日本100名城で現存12天守の一つ、弘前城を訪れる旅の途中、秋田県横手市を通りがかったときのことです。ご当地グルメとして名高い「横手焼きそば」の店に立ち寄ったあと、角館に向かって車を走らせていると、「平安の風わたる公園」という田園地帯にいささか場違いな名前の公園があるのを見かけました。
そこは雅な平安貴族の邸宅跡…ではなく、平安時代後期に起こった「後三年の役」の古戦場でした。後三年の役とは、その約20年前に起こった「前九年の役」で源頼義・義家父子が出羽の豪族、清原氏の助けを得て安倍氏を滅ぼしたのち、清原氏一族のあいだで起こった内紛です。
(写真は「平安の風わたる公園」にある壁画)
源義家は清原氏の一方の側に味方し、金沢柵に立てこもった敵軍を包囲しました。このとき、空を飛ぶ雁の列が乱れたようすから敵の伏兵を察知し攻撃した、といわれています。「平安の風わたる公園」はそんな歴史を語り継ぐ場所だったのです。
そこで、金沢柵が近いことを知り、カーナビで探して訪れてみることにしました。
柵とは古代に築かれた城砦です。金沢柵のあった場所は諸説ありますが、その比定地の一つが現在金澤公園として整備されています。
(写真は本丸跡に建つ金沢八幡宮)
本丸といわれている場所には金沢八幡宮が建立されています。後三年の役のあと、源頼家の命を受けた藤原(清原)清衡によって建立されたと伝わっています。その周辺には、後三年の役で奮闘した鎌倉権五郎景政が、戦死した兵を葬った場所に植えたという杉の木や、源義家が愛用の兜を埋めてその上に置いたという兜石などがあり、戦のあとを彷彿させてくれます。「納豆発祥の地」の碑は、そんな古戦場の片隅にひっそりとありました。
由来に書かれた「意外においしかったので」という理由が逆に意外ですが、そもそも食用でなかったならなぜ煮豆を俵に詰めて供出させたのかといえば、それは馬の飼料のためでした。実は古来から日本では馬の飼料として大豆、しかも煮豆が与えられていたそうです。
では、なぜ俵に詰めた煮豆が糸を引いていたのかというと、そもそも納豆は、稲藁に生息している細菌が繁殖し、煮豆が発酵することでできるもの。藁と煮豆が出会い、そして発酵までの時間が与えられることで納豆が生まれたというストーリーが、ここに織り込まれている、というわけです。
納豆=水戸、というイメージが私には強かっただけに、この東北に発祥の地があることは意外でした。しかし納豆をよく食べる地域として、甲信越や東北とともに九州が上がっているところを見ると(https://style.nikkei.com/article/DGXZZO02444190X10C16A5000000/)、これにも一理あるかもしれません。平安時代末期、剛勇すぎて持て余された武将、源為朝が九州に追放されたものの、そこで手下を集めて一帯を制覇し鎮西八郎を名乗った、という故事があるからです。やはりそこでも馬の飼料としての煮豆と藁との出会いがあったのではないでしょうか。
ちょっとした旅の道草から、毎朝食べる身近な食べ物の壮大な歴史を感じたひとときでした。
参考
山川出版社「詳説日本史 改訂版」
酪農と歴史のお話し「今と昔の馬の飼料の共通点」
http://farmhist.com/category4/entry80.html
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