読書録/クリスマス・キャロル
「クリスマス・カロル」
ディケンズ著 村岡花子訳/新潮文庫
イギリスを代表する国民的作家、チャールズ・ディケンスの代表作。クリスマスを目前にしたある夜、孤独な頑固オヤジ、スクルージは共同経営者だった男マーレイの亡霊と出会う。それにつづいて、過去、現在、そして未来の3人の幽霊がスクルージのもとを訪れ、彼が貪欲、金銭欲にとりつかれたことで何を得、何を失ったのか、そして将来待ち受けているものをつぶさに見せてゆく。彼は、甥からクリスマスの晩餐に毎年誘われていたが、一度も顔を出したことがなかった。幽霊はスクルージに、ある年のクリスマスの晩餐、甥とその家族がクリスマスの喜びを分かち合い、決してやって来ないケチでガンコなスクルージのためにも祝福を祈っていることを知る。そして未来の幽霊は、死んだ後にスクルージが、何によって憶えられるかをつぶさに見せつけるのだった。今からでも、その将来を変えられるのか。切に願ったスクルージは、クリスマスを迎えた朝、あることを決意するのだった…。
「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。」(新約聖書 ガラテヤ人への手紙6:7~8)
そんな聖書の言葉を思い起こさせるような、ちょっと道徳っぽいお話ですが、孤独で自分の殻に閉じこもり、損得勘定だけで生きてきたスクルージの心が、3人の亡霊とともにする人生の旅で変えられていく様が寓話的に語られていて、時代を超えた普遍的な感動がありました。どうして、スクルージはこういう頑で孤独でケチな人間になってしまったのかな? と思いましたが、ディケンズのフォーカスはそこではなく、そんな人間であっても、まだ心のどこかに良心があるのだ、という温かく前向きなまなざしが流れています。ピーター・ドラッカーは著書『非営利組織の経営』の中で、13歳のとき宗教の先生に「何によって憶えられたいかね」と聞かれ、誰も答えられなかった、と書いていましたが、ディケンズの問いかけも、まさにこういうことではなかったでしょうか。10代、20代の頃に読んでいたら、その問いかけは自分に迫ってこなかったかもしれません。しかし今読んでみると、スクルージの改心には、単に彼にも良心があり、いい人になってよかったね、という以上の深い感慨を持つことができたように思います。
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