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差別とヘイトには立てた中指の花束を 『福田村事件』〜『マイスモールランド』〜『HAPPYEND』

SNSとインターネットは人類には早過ぎた。

ツイッタやヤフコメなどをみていると、うんざりしながらそんなことを考えてしまう。
もちろん、そこで反吐みたいな言葉を撒き散らかしている人たちが世の中の全てではないとは分かっているのだけれど、言わせておけ、放っておけ、と言われてそうしてきた結果、外国人やマイノリティなどの社会的弱者にヘイトが向けられまくる今の状況が生まれている。
そこまで多くの人たちがそう思っているわけではないにしても、ネットを立ち上げればこうした差別やヘイトが大多数に見えてしまう今のこの状態は、もうとうに看過出来ないレベルに達しているように思える。

川口をダシにクルドの人たちを差別するのも、沖縄をダシに中国を差別するのも、ダシにされた場所もろともにヘイトを向けられる対象になる。
当然憤りもあるのだけれど、情けなさとか残念さの方がデカい。嘲笑も冷笑もドヤ顔のマウンティングも、いずれにせよその醜悪な薄ら笑いで得られるのは束の間の無敵感と無責任で空虚な賛同者以外に無いのだから。

ここ数年のこうした空気を如実に反映した秀作と呼べる映画が立て続けに出てきている。

10月4日に公開された『HAPPYEND』もその1つと言っていいと思う。観る前からあまり先入観を植え付けてしまうのも野暮なので詳しくは書かないが、この作品には「このままじゃヤバくないすか?」という空音央監督の“危機感”が確かに刻み込まれている。

フィクションの紛れもない大きな機能の1つとして「取り返しのつかない間違いを追体験できる」ということがあると考えている。

現実ではないから間違えられるし、観てる我々に対してそこから鋭い問いが突きつけられる。それをどう受け止めて、どう考えて動くのか。フィクションの中でならば存分に間違えられるからこそ、見えてくるもの、感じられるものはきっと多分にある。

とはいえ、決して“お勉強”をするためだけに映画を観るわけではないし、そもそも映画もそのためだけに作られているわけでない。
学びや気づきという自覚的な感覚のほかにも、言葉にはできない豊かな余白を無意識レベルでも受け止め、劇場を出た時にこれまでと世界の見え方がほんの少しでも変わっているというのが、優れた映画体験だ。

しかしやはり、それでも、四六時中と言っていいほど中指を立てたくなるこの現実と、かつて起こった、あるいはこれから起こりうる取り返しのつかない大きな間違いとの地続きな感じを直感的なレベルで自分の肌感覚に手繰り寄せることの出来るメディアが映画なのだと思う。

と、前置きが長くなったのだけれども、以下の映画を紹介したくてこの文章を書き始めたのであった。図らずも長くなってしまった。
ここ最近は邦画の豊作っぷりがハンパ無いので、上述したような「差別」というテーマでもって貫いて、以下のように作品の時代設定を基に時系列で並べて観てみるとなかなかに乙だと思うので是非に。

◆過去→『福田村事件』:100年前の関東大震災時に起こった、朝鮮人虐殺の実話ベースの話。この時、福田村とは別の場所で、朝鮮人だけではなく秋田や沖縄の人たちも殺されてしまったという事実も忘れてはならない。政府による公式記録、各自治体や警察の行政文書、当時の新聞報道、そして数多の住民の証言録が確かに存在し、研究も積み重ねられてきているのはどうやっても動かない事実として屹立しているこの期に及んで「虐殺は無かった」「根拠は?」などと言っている連中は、最低限これまでに蓄積された数多の根拠に明確な反証を示してからそういった言葉を口にすべきなのだ。


◆現在→『マイスモールランド』:上記本文でも触れた、在日クルド人の家族にフォーカスした大傑作。クルドの人たちをはじめとする日本で暮らしている難民の人たちが日々晒されている理不尽を、マイクロアグレッションから死活問題に至るまでの幅広いグラデーションで描き込んでいる。凄惨と形容してもいいウィシュマさんの事件で悪名を馳せたものの、未だ根本的な改善も情報公開もきちんとなされていない入管の横暴さの片鱗もそこには刻まれている。などと書くと、全編が暗澹たるムードに覆われていると思ってしまうかもしれないが、決してそうではなくて、主演の嵐莉菜さんのこの時にしか捉えられないフレッシュな煌めきが詰まった青春ものという側面もある。ただし、そのみずみずしい美しさと不条理な現実との間にあまりにもギャップがあって、そのコントラストゆえに増幅される辛さにも向き合わねばならないのだけれど。そして登場人物たちの微細な機微を優しく包み込んで光をあてるような、ROTH BART BARONによる主題歌と劇伴も素晴らしい。

◆未来→『HAPPYEND』:ちょっとした懐かしさを感じる質感の未来。碌に抗い方も受け流し方も知らない高校生の主人公たちが、理不尽な「社会のルール」という力(=権力)に晒され、翻弄されていく中で、出自や立場によってどうしようもなく変化していく友情の儚さや脆さ、そして確かさを鮮烈に描く。クソみたいな無駄なルールを設けて窮屈な世界を構築した“大人たち”への反抗、そしてそんな大人たちに怒らない同世代に対して怒る若者たちの声は、今現在も、過去からも、おそらくずっと鳴り響いている。


これらの物語を受けとめて(全てを受け止められなくてもいいけど)、少しでも視界が広くなり、世界が書き換えられる感覚を得られることを願いたい。

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