【拝啓 私】人の言いなりになるばかりだった時の私へ【手紙note】◎特別版◎
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拝啓 私へ
お元気ですか?
これを見ている私は、いつの時代の私ですか?
どの私でもいいから、見てくれてる事を願って書きますね。
今の私が生きている時代での大きなニュースは、
『秋篠宮文仁親王が、
天皇の代替わりに伴う皇室行事「大嘗祭(だいじょうさい)」への
国費支出 に疑問を呈した発言が波紋を広げている』という話。
結構思うところがあったので載せることにしました。
最初に説明を。
いろいろな行事に「平成最後の○○」と付けている今の私が生きてる時代。
翌年には生前退位される今上天皇から皇太子徳仁親王へ譲位する。
大嘗祭は毎年11月に行われる新嘗祭(にいなめさい)とは異なり、
即位後初めての新嘗祭を一世一度行われる祭のことを指す。
秋篠宮文仁親王は、
来年行われる皇太子徳仁親王が天皇になって初めて行う大嘗祭の支出を、
宗教色の強いこの祭りを国費で賄うのではなく、
内廷会計(天皇家の私費)で行い、
身の丈に合った形で行うのが本来の姿ではないかとの公式見解を出されたのだ。
私が言いたいのはこの後の反応についてだ。
政府見解は、
①宗教適性買うがあり、国事行為として行うのは困難。
②極めて重要な伝統的皇位継承儀式で、公的性格がある。
③国費からの出費が相当。
とのこと。
何一つ考慮も善処もされていない。
大嘗祭をウィキペディアで調べてみると、(ちょっと長いけど読んでみて)
『即位礼に関わる儀式が国の行事とされたのに対し、
大嘗祭に関わる儀式は皇室の行事とされた。
しばしば誤解されているが、
ここで「皇室の行事」というのは、
「皇室の私的な行事」という意味ではなく、
「皇室の公的な行事」という意味である。
大嘗祭の予算は通常の内廷費以外の臨時のものが組まれている。
当時の政府発表(最終回答)によれば、
大嘗祭が「国事行為」とされなかった理由は、
憲法上の天皇の「国事行為」とは「内閣の助言と承認」を必要とするものであり、
皇室の伝統祭祀である大嘗祭は「国事行為」に当たらないためである。』
と書かれている。
①の国事行事として行うのは困難というのはここで語られている通り。
③の国費からというものは、
通常の内廷費以外の臨時のものが組まれているとあることを踏まえると、
国費全出しというものは意図から逸脱するものになる。
首相官邸幹部はこんなことを言ったそうな。
「内廷費の予算規模では無理。
その分、増やすだけのことになり、現実的ではない」と。
これは大嘗祭の歴史を完全に無視した発言だね。
あともう一つの参考資料として、
第二次世界大戦敗戦後の天皇の人間宣言についてのウィキペディアには
『天皇が皇居で執り行う宗教儀式(宮中祭祀)は私的な事柄とされて、禁じられなかった。』
とある。
戦前から宮中祭祀は天皇家の私的な事柄とされていたと書かれている。
これは政府見解②とは真逆の話だよね。
秋篠宮文仁親王が仰られた身の丈に合った形という発言はここに当たるものと考えられる。
ウィキペディアに書かれていることが100%本質的なものなのかは解らない。
だけどこれはもっと深く話し合うべき案件じゃないのかなって正直思う。
これだけ発言と公文書の相違があるものを、
正当な根拠に基づく見解ではないと思わざるを得ない形で突っぱねるなど、
日本政府の姿勢に疑問が出る。
真摯ではないようにどうしても感じてしまう。
それに、
天皇家の事にに対してまで政府がこんな対応しかしないのであれば、
国民に対してはもっと軽視しているのではないかという見方も出てくる。
天皇家は地球の皇帝的立場を、
全世界各国が共通認識として持っているのに、
このあしらい様である。
酷すぎやしない?
それに一番気の毒なのは、
皇族の立場というものを超えて発言された秋篠宮文仁親王だ。
これだけの物議を呼ぶということは通常では有り得ないことだということ。
生まれの立ち場という、
目に見えないものの枠の中で生きなければならないお立場なのだなと、
その不自由さに畏敬の念を感じずには要られない。
言いたいことも言えないのは、
我々一般人よりも強いのではないかと・・・。
さて、今の私の話はここまで。
これから本題に入っていこうね。
今日私が伝えたい事、
それは【人の言いなりになるばかりだった時】ことについて。
自分より力のあるものに対しては、
力で制されることを恐れるがあまり、
どうしても屈してしまう。
どうですか?
暴力・武力・権力などに支配された生活を望みますか?
そのような力に屈服した人生をどう考えますか?
今、生きてて良かったと思えていますか?
正直言うとね、
今の私はその生き方は辞めました。
もしこれを読んでいるいつの時代かの私が、
人の言いなりになるしかないと思ってしまっていたら、
これを見て一つの参考にしてもらえると嬉しいです。
私は正直物凄く嫌。
力で押さえ付けようとされるのは、
怒りで震えるぐらいホント嫌。
人の思考や言動の自由を、
ある一部の権力者の顔色一つで我慢を強いられたり強要させられたりするのなんて、
死するより耐え難いものだ。
でも心が弱い時、
どうしても立ち向かう強さや勇気が自分になかった時、
早くこの時間が過ぎろと願うばかりで何もできなかった。
そんな思いを一生しながら生きるのはもう御免被りたい。
加えてその状況下にあることに気付かず、
常識や当たり前などに身を潜めて陰ながら支配するようなことにも、
私は抗いたい。
気付かれないように日常に潜み、
考えることをわざわざさせないように暗黙のルール的に溶け込んだ強烈な拘束。
気付かない奴が馬鹿なんだという無言の失笑を、
どこかの誰かにされてると思うと悔しくて堪らない。
私は常に常識を疑うようにしてる。
当たり前なんかない。
常識なんて誰かの都合の良いように作られた拘束具だ。
大衆管理システムだと思ってる。
政府やメディアがこれこそは正しいと思うものを、
さも当然で何の疑念も抱かないように短絡的に信じ込んでいた過去の私に、
もっと自分の頭で考えて判断するように強く伝えたい。
大多数の人に対して見解や意見・視点などを固定的に見せ、
そのまま受け入れるような思考方式を子供の頃から植え付けていく教育にも物申したい。
「あくまで一つの考え方・捉え方だけど」
この一言を入れるだけで、
自分で想像力を働かせて自らの意見を創造させることができたかもしれない。
でも人のせいにするつもりはない。
例え解らないように洗脳していた意図が日常に溢れていたとしても、
そこに気付かなかった自分の責任。
全て私が自らの選択で選んできた道。
「私自身が進むべき方向性を選んできた」と思わなければ、
自分の人生を自分で方向修正していくことはできないから。
人に屈服してきたのも、
環境に流されていたのも、
バカ正直に多くの情報を疑いもなく聞き入れて信じ込んでいたのも、
どれだけの外的圧力があったとしても、
そこに抗うことなく染まってしまうことを選んでしまっていたのは、
他の誰でもなくこの私自身。
人生全て自己責任・自己選択の結果。
この事実を真摯に受け止められなければ、
再スタートを切ることは不可能。
だから悔しくても認めてなければならない。
自分の嫌な部分を認められずに、
見ないように逃げて向き合ってこなかった弱かった私を。
考えることを放棄してそのまま信じていた無知な私自身を。
そして同時に褒めてあげたい。
そうして苦しい選択を無意識似てきながらでも、
その中で頑張って生きてきた私を。
これからはその私の頑張りをしっかり背負って、
引き継いで生きていくからね!
ここから、
私の人生を新たに初めて行くんだ!!
何も言えなかった私が居た。
言いたくてもそれを心の奥に押し込めてきた私が居た。
自分の思ったことや感じたことを消し去ってしまってきた私が居た。
自分で自分の心を殺し続けてきた私が居た。
ごめんね私。
一番優しくしてあげられるはずの私が、
私に優しくなかったね。
人に嫌われることが怖くて、
人に負ける事を認めるのが許せなくて、
私は私の身を守る為とはいえ、
私には我慢を強いて私以外に優しくすることを選んでしまっていたね。
私の心を誰よりも理解してあげられる唯一の存在である私なのに。
本当にごめんね。
これからは、
私のことも優しくしていくからね。
大切にしていくからね。
私は不器用だから、
どうしたら自分の心に優しくできるかはまだハッキリ解らないけど、
少しずつ自分の癖に気付いて、
なるべく早く自分を蔑ろにしちゃう私を直していくから、
待っててね。
私以外のもののありきで考えるんじゃなくて、
大前提が私であって、
私が私の意思でちゃんとひとつひとつを考えて選択し、
私の人生をしっかりと私主体で動かしていくからね。
「私の人生の主人公は私自身なんだ。
誰かの顔色を伺って、
私以外の何かの為に生きるような、
自分の人生を誰かの脇役として使う生き方は、
私は卒業します。」
決意表明としてここにこれを遺します。
ひとつだけ付け加えると、
世の中の捉え方を、
自分がいつもしている見方だけじゃなくて、
こんな見方もできるんじゃないかって、
複数の方向から物事や人を見る癖を付けるといいよ。
一度思ってしまった捉え方が正しいわけじゃない。
自分の発想をも疑って、
他の見方を探求してみて。
あと伝え方を考えれば自分の意図は通せるよ。
どんな対象に対してもそこに合った表現方法を使えば、
私の意見は採用されないまでも伝えることはできる。
伝わらずに聞き流されることのないように、
たくさんの伝え方・表現も探求していってね。
伝え方って言葉だけじゃない。
身振り手振りや顔の表情だったり、
相手の耳だけじゃなくて、
視覚にまで訴え掛けることもできるから、
自分の表現する幅を自分自身で限定せずに、
広い心で世界を見てみて。
自分以外の存在は、
自分のまだ使ってない自分の使い方を教えてくれる。
しっかりガッツリパクって使っちゃってね!
最後に、
ひとつだけって言っておきながらふたつ付け加えちゃったお茶目な私を許してください。
頑張れ私!
これを読んだ私の心が、
少しでも自由と自分らしさを大切にして生きられますように。
敬具
過去の手紙noteはこちらのポストに溜めて置いてます。
追伸
そうそう、
これを読んでる私やその知人友人に
「人のせいにばかりしてしまって人生全く動かせなくて苦しんでる」って人居る?
もし居たらこれ読むと参考になると思うから載せておくね。
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