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第一話→誰のものでもなく×全ての人のものということ
プロジェクトの砂場化について考えている。
私なりの時代の作り方
何かを生み出したいとき、
まずは「1」を生み出すことに集中する。
言い換えるならば、1=存在。
ここにこれがありますよ。
と、何にもなかった所に境界線を引く作業。
海をつくって、魚を存在させる。
海をつくるとはなにか。
部分情報をたくさん生み出して、
一つの物事をあらゆる角度から、表現する。
一つ見てもわかんない。
だけど、
その一つの切り口の表現に響く人もいる。
面白いものだ。
部分情報を全部受け取って、頭の中で統合しないと、
結局なんだかわからない。
全部部分に切り分けて、表現したぞという頃に、
魚が生まれる。
こういうものです。
やっと、形が出来て、評価可能な状態になる。
形が出来たら、
賛同と反対の意見がもらえる。
「なんかわからないけどいいんじゃない?」
誰に何を伝えても、そんなYesともNoともいえない返答がかえってくる段階は、
まだ、魚が生まれていない状態。
やりたいことの本質が、シンプルになっていないカオスの時期。
そんな時は、「結局何したいの?」って、
自分に問い直してみることが必要。
なにか生まれたぞと認識してもらえるようになったら、
次は魚を海にする作業に入る。
閉じた境界線を開く。
志々島國創りプロジェクトは今この段階なのかなと思って、
次の動きを考えている。
プロジェクトの砂場化とはなにか
初期段階で「誰が何を感じ何をしました」という形での発信だったものを、
一旦没個性化してみる。
没個性化という言葉がふさわしいかどうか、微妙な所だけれど、
中心軸を、属人的→属行為的に移動するというべきか。
無意識的に、人は誰かの造ったレールに載りたくないと感じている。
なぜなら、誰かのつくった秩序にのることは、すなわち従うことになるからだ。
従うということは、自分の思い通りに自由に振る舞えないということであり、
人はこれを嫌う。
既に誰かがはじめているものは、
無意識的に、制限と感じやすいのが人間。
人が集まれば「雰囲気」が生まれる。
それぞれ個性をもった人間が、
それぞれの経験や知識を元に、物事を編んでいくのだから、
それは必然だ。
雰囲気は、一つの制限を生む。
人には、好き嫌いがあるから、
これも仕方ない。
この人の信念には合わない、
考え方が合わない、
しゃべり方が嫌、
態度が嫌、
顔が嫌い。
人は、常にジャッジをする生き物だ。
本質を伝えたいなら、一旦顔を隠せ。
「誰が何を感じ何をしました」と属人的だった発信を、
「これをしたくて、これをしようとしています」と属行為的に変更する。
そして、境界線を無くす。
あえていうなら、境界線は中心の一点だ。
これがプロジェクトの砂場化。
ただそこに砂場がある。
<お砂遊びしたい?したくない?>
Yes/No
という単純な選択肢のみにリセットする。
城づくりの最中のお友達数名は一旦退出。
これで、うまくいくかしら。
とりあえず、やってみよう。
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