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大学生警備員の小砂7:「自分を保つジャイロ」でキャリアの空を往く

ここの話は私が20歳の頃のしょうもない経験と考えたことを元に回想し、解釈しているだけで、必ずしも正しい知識ではないことが含まれていることをあらかじめおことわりしておきます。
1992年、夏。私は朝の新聞配達以外は「引きこもり」のような生活から少し歩みだし、20歳の時に江東区にある高層ビルで警備員のアルバイトになりました。夜間のアルバイトです。そして、夜勤の警備員アルバイトをしながら、21歳の時に大学生になりました。
昼間に大学に行って、夜に警備員をしていましたら、労働時間が長くなり、準社員となりました。

21歳で大学生になった時の自分を振り返ると、人ごみに紛れるような「普通」になりたい自分と「競争からの自由」を感じている自分がいたように思います。ここでいう普通と言うのは教育の「パイプライン」を普通に移動して「隣百姓」としてのアンテナを張って生きていくことです。

私が大学に入学した1993年頃は、まだ「年齢信仰」が強めに残っていました。今の大学生はイメージできないかもしれませんが、インターネットもまだ普及していなかったこの時代は、就職を考えている大学生の家に就職情報会社からですね、段ボールが送られてきました。その中には、電話帳みたいな就職情報の冊子がね、業界ごとに何冊も入っているんです。

それをパラパラ見ていると、例えば、当時人気の出版社などのページを見るとですね「年齢」の欄があるのです。そして、人気出版社は「年齢制限23歳まで」「一浪一留まで」のように記載があります。別に、この冊子に掲載されている企業から就職先を選ばなくてはいけない理由はないんですよ。でも、レストランに入ってメニューの中から選ばなくてはいけないような錯覚も覚えたものです。

この競争に加わったらいかんような気がすると直感的には感じたものです。

当時、就職に年齢制限を設けているのは普通でした。もちろん、25歳まで、26歳まで、29歳までのように幅を持たせている企業の求人もありました。また、特殊法人や財団法人のようなところでは国家公務員試験の受験条件に合わせているところも多かったように記憶しています。

ただし、お給料を決める俸給表があり、年功序列がアクティブであれば、年齢が若い人を雇用したほうが世用主から見ても「お得」だったのでしょう。令和の時代には、ダイバーシティを謳う世の中で、年齢信仰も薄れてはきましたが、当時はまだ濃いめのエスプレッソでした。

私としては、そのラインに乗って、就職して、結婚して、普通に生きるという世界に憧れがありました。しかし、その一方で、せっかく普通のパイプラインに入らなかったので、いわゆる「年齢競争」には参加しない、競争から降りる、競争から自由になるという「オプション」に気づいたのでした。

何歳でこれこれして、何歳であれこれしてという「一般イメージ」の競争から自律的に降りることが自分の選択オプションに入ると、めちゃくちゃ自由を手に入れた気がしてきました。

さらに、大学の受験料、入学金、授業料を警備員の収入で賄ったことで、自分の意思決定についての親からの干渉はほぼなくなりました。いや、助言はあるのですよ。「それは社会人としていかがなものか」とか「人間として恥ずかしくないのか」という道徳や倫理に関しての「物言い」はあります。しかし、自分の進路・仕事の選択についてはほぼなくなりました。

一度母親に「地元で公務員しようかな」と言ったところ、「つまんなそう~」と返事が返ってきて、「えっ」と驚いたのを覚えています。両親が老いた時に、私が近くに住んでいた方がいろいろいいんじゃないかなという親孝行的に発せられたセリフだったのに。そのおかげかもしれませんが、「親のためにというような制約を自分に掛けることは(本心かどうかは別として)必ずしも親孝行ではないのかな?」と思った時でした。

教訓

既存の環境的枠組みや社会の価値観を前提に自分の選択をすることは長期的に見れば必ずしも正解に導かれない。その枠組みや価値観のなかで、競うことは否定しないけれど、望まないのに巻き込まれて競わされたり煽られたりする必要はない。年齢信仰が成り立つ枠組みも価値観も不変的なものではなく、変わることもあるでしょう。

どちらに転ぶにしても、自分はこれが良いと思うという軸なりアンカー(錨)を持っていた方が良いかもしれない。アンカー、古いですかね。ジャイロがいいですかね、自分を保つジャイロです。




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