ここで主体的になって何が楽しい?
「実は主体性を発揮してほしいと思うことは、こちらのナラティブの中で都合よく能動的に動いてほしいと要求していることがほとんどです。」(p.124 l.13)受動的でいるより、主体的でいるほうが圧倒的に楽しいはず。だが、「もっと主体的になろう!」と言われるとどこかがムズムズするのは、こういうことだったのか。”ここで主体的になって何が楽しいのだろう”と、心のどこかで感じていたのかもしれない。それは「もっと主体的になろう!」と言葉をくれた人との関係性・相手の都合、つまり枠組みを無意識に感じとって、「主体性」を考えていたからか。だったら、相手に本当に主体的になってほしいと思うのなら、言葉よりも、主体的になってほしい場所から一歩外にでなければ本人が楽しいと思う主体的にはならないのかもしれない。