東京方言の音韻論のためのちょうどいい音声記号を考えたい
個別言語の音韻論はその言語における音の出現パターンを記述するために、音をグループ分けしたり、関連づけたりする。[s, x, t, k] などのような一つ一つの音(単音という)をただリストアップすれば良いわけではなく、[s, x] は摩擦音で [t, k] は閉鎖音だとか、[s, t] は歯音で [x, k] は軟口蓋音だとかいうふうに、さまざまな基準で分類したり、特定の環境に [t, k] は現れるけど [s, x] は出てこないということがあれば「この条件下では摩擦音は現れない」と述べたり、さらにそこから進めて、特定の条件で摩擦音が閉鎖音に化ていると考え「こういうときは摩擦音は閉鎖音化する」というルールを述べたりする。
こうした分析の集まりとして個別言語の音韻論的は記述はなされるため、分析の対象となる耳に聞こえる音の表記も、ただ精密であれば良いというだけではなく、むしろ、分析したい特徴に応じて、ちょうど良い粒度になっていることが望ましい。つまり、分析したい特徴は記号で表現されているべきで、無視されている特徴は記号でも捨象されているのが理想である。そうでなければ、「表記上はこういう特徴も読み取れるが、今回は無視している」とか、逆に「表記上は読み取れないが、実はこういう特徴がある」といちいち言葉で述べる必要が出てくる(もちろん、多かれ少なかれ、どうせそういうことはするのだが)。なお、どのような特徴をきちんと分析する必要があり、どのような特徴はむしろ捨象するべきなのかは、複雑でよくわからない。基準の一つとして、人間の言語では決して利用されない特徴は捨象するべきだ、と考えることはよくあるが、人間の言語で利用される可能性がある特徴の合意されたリストは出来上がっていないので、結局、数ある理論のどれを採用するかに依存してしまう。いずれにせよ、最終的には分析をする本人が決めなければならない。(そして、どのような特徴を捨象し、どのような特徴を本質的だと考えているかは、読者に伝わるようにする必要がある。)
ただし、精密な音声表記が不要だというわけではない。具体的な音の特徴が可能な限り取りこぼされることなく正確に表現されていることは、それ自体として価値がある。それどころか、分析者がそこからどのような特徴を捨象したかがわからないと、分析の正しさを確かめることができないし、間違いを指摘することもできない。
そういうわけで、耳に聞こえる言語音(表層形という)を音声記号で表す際には、2種類の表記を同時に行うと便利である:簡易表記 (broad transcription) と精密表記 (narrow transcription) である。現実には、どちらも基本的には IPA で行われることが多い。その際、精密表記は [ ] で括って示し、耳に聞こえる限りのできるだけ多くの情報を、IPA でさまざまに用意されている特殊な文字と補助記号を駆使して表記する。(ちなみに、冒頭のパラグラフで示した [ ] で括った音声記号は、IPA に従っている。)一方、簡易表記は / / でくくり、非本質的な情報を削ぎ落とすため、補助記号を省いたり、できるだけラテンアルファベットの基本的な文字だけを使うなどの工夫をする。
しかし、筆者は、個別言語の簡易表記には、IPA ではなく、もっと自由に、場当たり的であっても、対象言語に最適な表記を考えた方が良いのではないかと考えている。「ちょうど良い粒度」を追求すると、どうしても IPA と衝突してしまうし、そもそも、IPA は書いていて気持ちのいいものではない。そこで、東京方言の音韻論的記述のための最適な表記方法を考えたいと思っている。具体的には色々考えてはいる(ツイートしたこともある)が、またもう少し考えてから書こうと思う。今回は書かない。今回は、そもそもなぜそんなことを考えたいのかということを伝えることができれば、それでいいと思う。