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「神奈川県三浦市方言のア]カトンボについて」のふりかえりと質疑応答の補足

先日の日本語学会(学生セッション)で、表題の発表をさせていただきました。

質疑応答では多数の質問をいただき、その場でできる限りの回答をしたつもりですが、緊張の中、限られた時間で慌てて返事をしていたということもあり、改めてかきなおした方が良いこともあると思い、いただいた質問の一部と、それに対する回答を書いてみようと思います。

なお、いただいた質問を正確に再現できているかは分かりません。また、すべての質問を取り上げることもできません。発表そのものも含め、説明が不十分だった部分があると思われるため、その補足をすることに主眼を置いています。また、質問の中には会場ではなく非公式の場で頂いたものも含んでいます。

聴きにきてくださった方々に改めてお礼を申し上げます。

発表に使ったスライドは以下のリンクからダウンロードできます。

https://www.researchgate.net/publication/355807647_shennaichuanxiansanpushifangyannoakatonbonitsuite?ev=project

また、同じタイトルで論文形式でもう少し詳しく書いているプレプリントがありますので、よろしければこちらもご覧ください。

https://www.researchgate.net/publication/353614172_shennaichuanxiansanpushifangyannoakatonbonitsuite?ev=project

Q. nF / F というのは本当に弁別的なのか?

現代東京方言において弁別的です。①現代東京方言において、すくなくとも3通りのピッチ曲線が互いに弁別されることが郡 (2008) で確かめられています。郡 (2008) では、「句音調」とも呼ばれる語頭のピッチ上昇(語頭にLが現れるという捉え方もされます。)がある形を「アクセントの弱化」を受けていない形とし、逆に句音調がない形を「アクセントの弱化」を受けた形であると捉え、さらに後者における語頭のピッチ曲線がアクセント核後の下降領域のピッチ曲線と異なることを音響的に示しています。すなわち、現代東京方言において弁別される3つのピッチ曲線とは、a. 発話頭などにみられる強いピッチ上昇、b. 単純語の内部でアクセント核よりも後の領域(段階観ではLで書かれる領域)に見られる強いピッチ下降、および、c. そのどちらでもない、「自然下降」ともよばれるなだらかなピッチ下降です。

郡 2008:

nF というのは、このうち a とc を区別せずに示す記号で、F は b を示す記号です。

②郡 (2008) はこのトーンの3方対立を実験によって確かめたものですが、nF と F の対立は母語話者の直感によっても確認することができます。次のフレーズ群は nFFFF であり、は nFFnFnF です。首都圏出身の方、またいわゆる共通語の内省が可能な方は、(個人差によって二、三のブレがあるかもしれませんが)グループ分けがランダムでないことを感覚で確かめてみてください。

甲:アイドル、内閣、マントル、コーナー、商品、債権、文学、直ちに、今から、今日から、5時まで、2時には、5分で、アキラが、元気な、あるとき
乙:我が国、手のひら、目の端、目の下、い人、な事、(「有る事無い事」における)有る事、無い事、今日だけ、ある晩、どの子も

③東京方言と呼ばれることのある変種のひとつにおける nF と F の対立が実験的に確かめられているとしても、首都圏のすべての地域においてそれが成り立つとは限らないと思われるかもしれません。それはもちろんその通りです。今回は三浦市の話者がインフォーマントであったため、三浦市のこの変種では成り立たないという可能性は考慮する必要があるでしょう。しかし、nF と F による記述は、東京式アクセントを記述する方式として、過去のアクセント研究のデータと整合性のある事実上唯一のものです。たとえば、HとLによる記述は、そのままピッチ形の記述と見ることができないことは、以下の杉藤 1969 などによって既に長い間知られています。

杉藤 1969: https://ci.nii.ac.jp/naid/40001286053

また、以下の Hasegawa 1995 は、東京方言においてアクセント核の位置はピッチのピークの位置とは対応しておらず、下降の弱いモーラの直後に下降の強いモーラがあることを条件として知覚されるということを、過去の研究を要約して説明しています。

Hasegawa 1995: http://hasegawa.berkeley.edu/Accent/accent.html

このように、従来行われてきた、拍の高さによる記述(拍の境界に前後の相対的な高さを示す記号を挿入するものを含む)が、Hasegawa のいう「錯覚」(“illusion”) の産物であったことが明らかである以上、同様の方式で記述されてきた首都圏の東京式アクセントの諸方言についても、他の証拠(たとえば、三浦市方言の基本的なピッチ体系が東京方言とは似て非なるものであった、といったことを示す証拠)が提出されるまでは、同じメカニズムで聴覚印象が得られてきたものと差し当たって推定するのは合理的なことだと思います。

ただし、今回のインフォーマントの個人方言において弁別的であったことを確かめることはできないでしょう。

Q. すべてのモーラについて2値を指定するアクセント観なのか?

今回用いた nF と F による表記は、より具体的には表層形の曲線声調を R, Lv, F の3種に分類する方式に基づき、そのうち R と Lv を区別なく nF とする方式によるものです。したがって、比較的表層に近い部分を扱っていると言えます。

アクセント観としては、基本的には児玉 2008、およびそのベースとなっている Nespor & Vogel 1986 “Prosodic Phonology” に基づいています。生成文法において統語部門から出力される音韻形式を、「韻律階層」とよばれるそれぞれ異なる音韻規則が適用される複数の韻律単位からなる階層構造に位置付けることにより、表層形を正しく説明しようとするものです。児玉 2008 では東京方言のピッチ形を説明するため、韻律単位として大きい順に「イントネーション句」「音韻句」「アクセント句」という3つの単位が使われています。今回の発表と関係があるのはそのうちの最下層に位置する「アクセント句」で、これは第一モーラが必ず nF であり、一度 F が現れたらそれ以降は二度と nF が現れないような韻律単位です。原則として単純名詞は一つのアクセント句に収まりますが、今回扱ったようないわゆる複合語は、2つのアクセント句にまたがることもあります。

児玉 2008: http://lg.let.kumamoto-u.ac.jp/ariake/08-01.pdf

基底(あるいは、統語部門から出力される列)においてアクセント(または、表層形におけるピッチ形に対応するなんらかの素性)が指定される単位は統語的な語ではなく「アクセント句」に対応します。アクセント句を単位とした場合は、以下のように従来方式ときれいな対応関係が得られます。

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したがって、アクセントの指定の方法も、従来方式とよく似ています。発表の趣旨からは離れるため載せませんでしたが、私は基底形式は概ね以下のように表現されるべきだろうと考えています。

ˈコスモス
ウˈグイス
アオˈゾラ
イモーˈト
アメダマˈ

ここで使われているアクセント記号は、アクセント句の始端から自分の直後のモーラまでの領域が nF 区間となるような位置に配置されます。つまり、このアクセント記号(に対応するなんらかの音韻素性)の配置を見て、韻律階層が nF を配置する、ということになります。アクセント句は必ず nF から始まるという制限があるため、「コスモス」は未指定にできるかもしれません。

このアクセント記号の使い方は以下の記事でも解説しています。

すべてのモーラについて曲線声調を記述しなければならないのは、ア]カトンボ のようなピッチ形が未知の複合語の場合です。もしかしたらアクセント句はひとつかもしれないし、あるいはふたつかもしれませんでした。今回のデータではア]カトンボ は nFFnFnFnF だったので、これはアクセント句ふたつからなる複合語だということになります。

Q. 従来方式と新方式は、結局のところ、何が対応していて、何が違うのか

原則として、単純名詞一個については、従来方式(ブラケット(])方式)におけるブラケットの前後のモーラが新方式における nFF に対応します。

違いは ア]カトンボ のような複合語を扱うときにあらわれます。次の画像は、今回発表に使ったスライドの画像の一部を拡大して、ウ]ミボーズ, オ]ニガシマダ, ア]カトンボガ の fo 曲線を示した画像にアノテーションを加えたものです。赤い線は画像のなかの実際の曲線をなぞりながら、二句構成のピッチ曲線の特徴がわかりやすいように強調し、単純化&理想化したものです。青い線は(実際には二句構成でしたが)もし一句構成であったならこのような曲線を見ることができただろうという仮想の曲線です。(もちろん青い線も理想化されたものです)ウ]ミボーズ についてははっきりした曲線が得られていないため、赤い線も青い線も引いていません。

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赤い線は、黄色い丸で示したFからnFに切り替わるポイントで下降の傾向が変わっていることがわかると思います。それに対して、青い線は、下降の傾向が急に変わるポイントがないということを表しています。「アカトンボ」がもし一句構成だったら、青い線のような形が現れることが予想されます。実際に、単純語の fo 曲線は、ほぼ同様の下降傾向が長い間続く、青い線のような形になります。これらの特徴は郡 2008 によく記述されています。

従来方式と新方式の違いは、従来方式では青い線と赤い線は同じ表記になってしまうが、新方式では異なる表記になるということです。

Q. 長野県の方言には類似の形式で頭高のものがある

これは類似の形式で最後まで F になるものがあるということを指摘されていたのではないかと想像しています。(違っていたらご指摘ください。)

複合語であっても、実際にピッチを観察するまではその途中に F から nF に切り替わるポイントがあるかどうかはわかりません。このような「歴史の偶然」については以下のスレッドでも言及しています。(スレッドではできるだけ専門用語を使わないように努めていたので鉤括弧付き「語境界」となっていますが、これはアクセント句境界のことです。)だからこそ nF と F によるピッチ記述が必要です。

Q. F としている部分は物理量としては拍内下降のように見えても、本質はやはりLなのではないか

自動車のアナロジーを用いて説明していただいたと記憶しています。自動車はブレーキを踏んでも直ぐには止まれないというように、調音運動においても、ピッチを高いところから低いところに移行するには時間がかかるから、それが物理量としては拍内下降のようにみえる fo 曲線として現れるのではないか、という趣旨だと思います。

調音運動には目標のセッティングがあり、調音器官はそのセッティングを目指して時間をかけて状態移行を行うというのは、音声学の標準的な理解です。(IPA の基本的な前提の一つです。(『国際音声記号ガイドブック』(2003) p. 8))これはピッチに限定されたことではなく、[ara] と発音する場合には [r] に移行するまでの間に [ɹ] に近い音色が現れることがあると思います。また、[æi] と発音すれば、[i] に移行するまでの間に [e] に近い音色が現れるでしょう。「Lが本質なのではないか」というのは、これと同様に、Lに移行するまでの間に下降調が現れているに過ぎないのではないか、という指摘だと理解できます。

言語の声調に関しては一般に段階声調 (register tone) と呼ばれるものと曲線声調 (contour tone) と呼ばれるものがあり、これは調音の目標が声の高さなのか、それとも声の高さの変化の仕方が目標なのかという違いです(Moira Yip 2002 “Tone” (手元にないためページ数は確認し次第追記します。))。ピッチが高いところから低いところ(HからL、など)に移行するにあたって下降曲線が現れるが、本質はあくまで高さ、低さだという主張は、まさに段階声調を本質と見る主張です。

私は東京方言のアクセント体系について、曲線声調こそが本質であると考えています。それはもちろん、郡 2008, 杉藤 1968, Hasegawa 1995 などの過去の研究を合理的に説明するためには曲線声調が必要だというのも理由の一つです。(いわゆる「段階観」と「方向観」の対立も、曲線声調の言語を段階声調で解釈しようとした結果として説明できます。)もう一つの理由は、声の高さを調音目標とした発音は端的に言って極めて不自然だという私自身の素朴な感覚です。母音は目標の音色に至れば、その音色を長時間維持することができます。どの程度長くしても不自然でないかは発話速度に依存します。つまり、非常にゆっくり話しているときは、母音の音色を一定に保ったまま長時間発声していることができます。これは母音の調音目標が音色の変化の仕方ではなく、音色そのものだということによって説明できます。同様にピッチについて考えると、東京方言では、F と示されるところは、ゆっくり話しているときはそれだけ長い間下降しつづけなければ不自然です。これは調音目標が声の高さでないと考えることによって説明できます。もし目標が声の高さであれば、発話速度に関わらず急激に下降し、目標の高さに至った時点で下降を止めてもいいはずです。

Q. 前部要素の核を生かす複合規則は既に知られている

従来知られている「前部要素の核を生かす」という複合語規則ではなかったのだろうというのが今回の提案の一つです。ア]カトンボ の語形については、従来、nFFFFF なのか nFFnFnFnF なのかがわかっていなかった、というのがそもそもの研究課題ですが、前者であれば「赤」と「トンボ」がアクセント上も結合しており、またいわゆる「核」の位置は「赤」から引き継がれているとみる余地があります。しかし、今回のデータでは、① ア]カトンボ が nFFnFnFnF (ˈアカ | トンボˈ) と発音されています。この場合はアクセントの複合を考える必要がありません。「赤」(ˈアカ) と「トンボ」(トンボˈ) が単に連続して発音され、句音調(「語頭の低」”initial lowering” などとも呼ばれ、今回依拠する児玉 2008 では記号 R で示されるものです)が生じない場合と同様です。すなわち複合語のタイプとしては「我が国」nFFnFnF(ˈワガ | クニˈ)などと同様、nF から始まる領域を二つ持ち(このことを拙発表および児玉 2008 では「二句構成」と表現しています)、かつ内部に句音調を生じないタイプです。これらは統語的には一語であると考えられるものの、アクセントの複合は生じていません。句音調と単位数の違いを無視すれば「日本国語大辞典」などもこのグループに含めることができます。

次に、②オ]ニガシマ および ウ]ミボーズ については、それぞれ nFFnFnFnF (ˈオニガ | シマˈ) および nFFnFnFnF (ˈウミ | ボーズˈ) でしたが、ここに現れている「鬼」 nFF (ˈオニ), 「島」 nFnF(nF) (シマˈ), および「坊主」nFnFnF(nF) (ボーズˈ) は、いずれも1943年のNHKのアクセント辞典には確認できません。三浦市にはもしかしたらこれらの語形が存在したかもしれませんが、これは私には今の所分かりません。また、もし三浦市を含む地域でこれらの語形が話されていたとしても、少なくともウ]ミボーズは古くから知られている東京方言におけるものと同型の可能性があり、その場合はやはり1943年の東京に「坊主」nFnFnF(nF) (ボーズˈ) が存在しなければならないことになります。したがって、「前部要素のアクセントを活かす」のではなく、元のアクセントは関係ないのではないか?というのが今回の提案の一つです。具体的には、前部要素のアクセントにかかわらず、前部が nFF…F, 後部が nF…nF(nF) の形をとるような規則があったのではないか?と考えられます。

Q. 「未知の結合規則」は現存しているのか?

現存している可能性は低いと考えられます。①1943年のNHKアクセント辞典にには「赤」から始まる複合語が以下のように多数掲載されていますが、ア]カトンボのように第一モーラにアクセント核が示されているものは他にありません。

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特に関係の深い可能性がある5モーラ名詞に限って抜き出すと、以下の9語がありますが、ア]カトンボ 以外はすべて現代東京方言と同じ形のみが掲載されており、ア]カトンボ が例外的であることは明らかです。

アカイ]ワシ、アカエ]ボシ、アカガ]エル、アカガ]ワアラ、アカゲ]ット、アカサ]ンゴ、アカデ]ンシャ、ア]カトンボ、アカハ]ダカ

もし1943年の東京で件の結合規則がアクティブであったのであれば、ア]カトンボ 以外にも同様の例があって然るべきでしょう。

②また、三浦市を含む一部地域では現代に至るまでその規則が生き残っていたと考えると、ア]カトンボ 型の語は少なくとも方言形として多数生産され、日常使用されてきたはずだということになります。それらが隣接地域の話者に一切知られないまま、言語学者にも一切気付かれないまま、ひっそりと生き続けていると考えるのは無理があると私には思われます。

Q. 三浦市における追加調査が必要ではないか

三浦市ももちろんですし、東京式アクセントの全ての方言について追加調査が必要です。長い間、諸方言の曲線声調が記述されてこなかったために、多くの語彙情報が不明のままになっています。東京方言、大阪方言といった一部の方言については音声研究の蓄積も比較的豊富にありますが、他のほとんどの方言はそうではありません。今回の報告では3例しか扱うことができませんでした。方言は記述を待つことなく変化していってしまいます。

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