日曜日の憂鬱
「はあ・・・明日から仕事か、行きたくないな」
友人と楽しく過ごした日曜日の夜。ファミレスでご飯を食べながら憂鬱に明日のことを考えていた。友人は、そんな私の気を紛らわそうと、夏休みに北海道に行こうと提案してくれた。私自身、北海道への旅行は興味もあり行く気でいるのだが、気分が下がり集中して話の内容を聞けていなかった。
友人を自宅まで送る帰りの車内で、友人は私に尋ねた。
「なんで、そんなに仕事に行きたくないの?」
私は、その問いに対し、誠実に答えようと考えた。仕事が忙しいからと答えるのは一つの正解であると思うが、一方で本当にそれだけなのか?と考える自分がいたからだ。私は、答えながら自分なりの考えを整理し始めた。
仕事が憂鬱に感じる理由は、
・仕事が忙しいと思うような「仕事への焦燥感」
・仕事を行う上での「人間関係」
・周囲の期待に応えられていない「自分に対する停滞感」
の三要因を挙げた。
その上で一番問題があるのは、3つ目の「自分に対する停滞感」にあると感じた。上記の要因のうち、1つ目、2つ目は「外的要因」によるものだが、3つ目は「内的要因」にあると考えたためだ。「周囲の期待する自分」と「現在の自分」のレベルが離れていると考えているのは自分であり、他の人の評価から考えていることではないためだ。つまり「思い込み」の要因であると考えられる。
ではなぜ「自分が停滞している」と思うか。答えは明白だった。周りの友人と比較し、自分は自己実現に向けた行動をしていないと考えたためだ。
例を挙げると、今の職場では自分がやりたいことをできていないと考えていた友人が、転職活動を行い、見事、希望の就職先への就職が決まった。彼と比較した時、自分は「やりたいこと」を見つけられていないし、見つけるための具体的な努力をしていない。そのくせ、平日の夜や土日にそのための努力をしているかと聞かれたら、怠っている。
日曜日から月曜日への切り替わりは、一週間の総決算であるのではないかと感じる。日曜日に感じる憂鬱は「今週も何事も成し遂げられなかった自分に対する絶望」なのではないか。だからこそ、来週も何事も成し遂げられない自分を想像するのが怖くて、新しい一週間を始めるのが怖くて、俺はもっとやれているはずなんだと考えながら、眠れずに、翌朝起床する。つまり、これを憂鬱に感じているのだと、私は考えた。
このことを友人は黙って聞いていてくれた。そして、こう言った。
「じゃあ、これからどうすればいいと思う?」
この問いに、私は一瞬ドキッとした。「どうするか」を選択することは、「他の選択肢を消す」ことであると思ったからだ。私は、進むべき道を考えることさえしていなかった。つまり今までの自分は選択肢が複数存在する状況にかまけて、何も決断してこなかったのではないかと考えた。
しかし、友人たちは違う。方法は違えど、自己実現のために努力をしている。話を聞いていてくれる友人はロードバイクを趣味としていて「自分にはロードバイクしかない」と思えるような努力をしている。その努力は他の選択肢を捨てているとも言える。友人はそれを「妥協」と言ったが、そうは思わない。たとえ妥協であっても「それしかない」と呼べるまで努力したのであれば、自己実現のための努力といえる。そして、その選択は妥協ではなく決断である。
私は、答えながら自分の考えを整理することができたことを、その友人に感謝したい。自分の進むべき道へ努力をしない限り、その友人の誠意に応えられないと思う。これからの私にできることは、
・「これからどうするか」を目的から逆算し考えること。
・目的に対する具体的な行動を起こすこと。
・選択により、他の選択肢を捨てることを恐れているのであれば、他の選択肢に何があるかを考えること。
・全て可視化すること。
であると考える。
帰りの車の中で。変わらない自分を嘆くのであれば、変えていくしかないのだと、小さく決意した。迷う暇はない。小さな一歩だが、いつかは彼らと並べるよう、願うばかりだ。