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【随想】芥川龍之介『西方の人』①

 マリアは唯の女人だった。が、或夜聖霊に感じて忽ちクリストを生み落した。我々はあらゆる女人の中に多少のマリアを感じるであろう。同時に又あらゆる男子の中にも――。いや、我々は炉に燃える火や畠の野菜や素焼きの瓶や巌畳に出来た腰かけの中にも多少のマリアを感じるであろう。マリアは「永遠に女性なるもの」ではない。唯「永遠に守らんとするもの」である。クリストの母、マリアの一生もやはり「涙の谷」の中に通っていた。が、マリアは忍耐を重ねてこの一生を歩いて行った。世間智と愚と美徳とは彼女の一生の中に一つに住んでいる。ニイチェの叛逆はクリストに対するよりもマリアに対する叛逆だった。

芥川龍之介『西方の人』(短編集『侏儒の言葉・西方の人』)新潮社,1968

 バプテズマのヨハネはロマン主義を理解出来ないクリストだった。彼の威厳は荒金のようにそこにかがやかに残っている。彼のクリストに及ばなかったのも恐らくはその事実に存するであろう。

同上

彼は彼等に比べれば勿論、後代のクリストたちに比べても、決して遜色のあるジャアナリストではない。彼のジャアナリズムはその為に西方の古典と肩を並べている。彼は実に古い炎に新しい薪を加えるジャアナリストだった。

同上

「幼な児の如くあること」は幼稚園時代にかえることである。クリストの言葉に従えば、誰かの保護を受けなければ、人生に堪えないものの外は黄金の門に入ることは出来ない。そこには又世間智に対する彼の軽蔑も忍びこんでいる。

同上

 潜在意識の顕現たる原初の言葉から構成される世界、そんな常人には見ることさえ叶わぬ世界を、多数の人間の認識が重なる共有フィールドに於いて言葉で示してみせる事が出来る、そんな超天才が、過去人類に数人存在した。イエスもその一人である。彼の説く「愛」とは、世界の真実の形を凡人にも分かるように加工した言葉であり、その本質は人間同士の親近感情や信頼関係のような慎ましいものではなく、もっと大きな宇宙全体を貫く根本原理のようなものである。全てを知ってしまった彼は、その究極理を己の裡にしまい込むのではなく、寧ろなるべく多くの人間と共有しようと努力した。人間の奇跡を示し、人間の不正を暴き、狭小な人間社会に蔓延る真理に対する偏見を正そうと試みた。今もそうだが、彼が生きた当時も、究極理を説明するに足る言語は存在しなかったし、彼の言葉の本質を理解出来る人間は弟子の内にさえ居なかった。彼は深い洞窟の闇より恐ろしい孤独の中に唯独り居て、それでも懸命に声を上げ続けた勇気の人であった。つまり、彼もまた彼と同じく阿呆であった。


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