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ドイツのサッカー指導者が見た「日本とドイツ」part0〜ドイツで指導者になるまで〜

ここではドイツという伝統的なサッカーの国で見たものを書いていく
話したいことは日本サッカーの進むべき道だ!
簡単にいうと日本が世界の強豪になる可能性をここで感じた話だ。

ただここではまず僕という人間が
どうやってドイツに辿り着いて
どうやってドイツで指導者をしていたか
っていう自己紹介みたいな話から

だから、ここは思い出話みたいなもんだ
本編は part1から見てほしい。


僕は高校サッカーを引退する時には指導者になりたかった
思えば長くプレーヤーしながらもどこか自分はそっちだろうと思っていた
僕は93年生まれの29歳
同世代の人はわかるかもしれない
プロ選手の経歴がない人間が指導者になる方法なんてのはほとんど知らなかった
今は全然違うけどね

ただ1つだけ知っていた
それは”学校の先生”だ

だから僕は高校の先生を目指した
なんで高校かと言えば、もう1つ憧れたものがあるからだ
それは ”最後のロッカールーム
いい歳こいて涙流して熱く語る顧問の先生が最っ高にかっこよかった!
負けなきゃなんないじゃん!なんてツッコミもされたが
まあ細かいことは気にしなかった
だから教員免許取れる大学どこだ?って探した
高校サッカー引退の時に顧問の先生に「いつか戦いましょう」なんて宣言した
思い返せば進路に迷ったことなんかほとんどない
いつも自分のやりたい!に忠実だった
だから今ドイツにいるんだろうな

そうやって予定通り大学卒業で先生になった
人工芝のグランドがあるけど、その県内じゃそこまで強豪じゃないような部活なら
入りこめるだろうなんて目論んで学校も決めた
僕からしたら赴任校がランダムに決められる公立校の先生は論外だ
私立高校一択
ここでも進路は迷わない

でもそれは甘かった
その組織に入る隙間はなかった
だからすぐさま切り替えた。別の高校へ行こう!と
全てはサッカーのためだからいつも行動の決断は簡単だ
給料は下がったけど別によかった
周りに理解はされなかったけどそれもよかった

そして次の高校でついにサッカー指導者を始めることができた!
3年この高校で働いたが僕にとっては最高の3年間だった
まず合流から1ヶ月で2ndチームを任せてもらえた
今思い返せばココが転機。奇跡みたいな出来事だった。
この判断をしてくれた当時の上司の方には一生頭が上がらないだろう
その上基本的には自由に指導もチーム作りもやらせてもらえた
僕が勝手をしていただけの可能性も高いが本当にありがたかった

その3年間僕が監督としての成績は25勝3敗3分
無敗優勝で昇格したり、昇格してもそのまま開幕4連勝したり
その年はコロナで昇降格はなかったけれど。
他にも3年間毎年リーグ最少失点
自慢したくなるくらい上手くいった

そうなれば自分の力を試してみたくなる
指導者やり始めてからやりたいことも増えた
自分のチームだけでなく外部にも影響を与えられないか
サッカーってスポーツの面白さをもっと多くの人に伝えられるんじゃないか
そんなことも考え始めていたタイミングだった

ちょうどその時指導者ライセンスを一緒に受講したの仲間から
社会人サッカーの県1部リーグのチームで監督を探しているという話があった

全く知らない世界
学校を卒業して学校に戻ってきた自分からすれば
社会人ってものすらよくわかんない

でもこの枠を掴み取る自信だけはあった
3年間で積み上げたサッカーの思考は絶対的な自信があったから

よし行こう!先生やめてサッカー1本でやってく人になる!
ただこの時だけは足がすくんだ。怖くて怖くて仕方がなかった。
こんな居心地も良くて自分の夢も叶えられる場所を捨てるのか?と
そんな自分を決断させてくれたのは学校の先生としての自分だった
自分を生徒が同じ迷い方したらどっち勧めるのか自問自答した
簡単だった
未開の地へ立ち向かえと僕は必ずそういうだろう
じゃあ僕が選ぶのは先生をやめることだった
学校の先生としての自分が自分という学校の先生をやめさせた
変な話だけど
サッカーのために選んだ職だったけど
今は先生って職自体にも魅力を感じられるようになった
こうやってサッカーによって僕の人生は彩られていった。

自分の自信通り僕は社会人サッカー監督の座を勝ち取った
絶対の自信を持って挑んだ結果は失敗だった
勝てなかった
与えられた目標は「残留
この最低限の目標を僕は達成できなかった
降格が決まった瞬間潔くやめることを決めた
完全な力不足
じゃあ何が足りなかったのか

もっともっとサッカーの勉強重ねるべきだったのか?

違う

明らかに違った

僕に足りなかったのはサッカー以外の部分だ

高校の部活ってのはご存知の通り
基本的にはいつもチーム全員揃って練習ができる
遅刻や無断欠席は学校ってルールの中では良いものとされていない
それに先生って役職がある分話は聞いてもらいやすいし
一緒にいられる時間も長い
それがどれだけ恵まれた環境だったか思い知ることになる

当日まで誰が来るかはわからない
来る時間もバラバラ
試合だけ参加の選手なんかもいて
開幕戦で初めましての挨拶なんてこともあった
多少なりとも予想していたもの遥か上を行った
合流して1ヶ月僕は大きく舵を切った

チームの文化を作るところから始めよう

サッカーの話は後だ
だけど結局このままサッカーの話には辿り着かなかった

チームのルールを決めていこうとした
休む時の連絡や練習の参加表明などだ
これが真っ向から反対された
きっと高校ならあり得なかったことだ
こうして僕は最悪のスタート切ってその遅れは取り戻せなかった。

どうすればよかったのか考えた
きっとまた来年別のチームで監督してもきっと上手くいかない
なにが悪かったのか?
きっと進行方向は間違っていなかったと思っている
”チームの文化を作る”これは間違っているはずだから
じゃあどうすれば文化を作れるようになる?
そうだ!僕がルールを提示した、その時に反対されたあれがミスだったんだ
関係地も作れてない段階でルールを押し付けようとしていた
そんなの聞くはずもない
要は伝え方、言い方、タイミングなどなど
コミュニケーションって言っちゃうのは少し雑だ
”マネジメント”ってやつだ

この力がないとサッカーの内容までは辿り着けない
それに気づいた。早く踏み出さなきゃ気付くことができなかった
だからマネージメントを学ぼうと思った
じゃあどうやって?

そう!ここでついに例の国が僕の頭の中に浮かんだ
なぜかって
サッカー界にどっぷりになったこの年
あるJクラブの外国人監督と関わることができた
ちょっと堅物そうなイメージのその方は
僕のトレーニング見せてくださいっていう無茶なお願いに
二つ返事で承諾してくれた
そこで知った”オープンマインド”ってやつだ
そこから外国人の監督のマネージメントを探求するようになった
サッカーだけでなくバスケの監督なんかもだ
All or Nothingなんて最高の素材だ
今まで良さがよく理解できなかった監督たち
アンチェロッティとかジダンとか、森保一さんもそうだ
そういう人たちの凄さが理解できるようになってきた

そしてなにより僕が今最も憧れるのはトーマス・トゥヘルだ
またその年のCLの王者はトゥヘルのチェルシー
その前はハンジフリックのバイエルン
その前はユルゲンクロップのリヴァプール
いつだって世界チャンピオンはドイツ人監督だった
その謎を知りにいこうと心は決まった

「ドイツに行って海外のチームマネジメントを知る」

そこに自分の成長の確信を持ったら僕はもう迷わない
少し近い国で戦争が起こったりしたけど僕には関係ない
覚悟なら誰よりあるから
自分のやりたいことに向かうのなら命賭けて向かうしかないから
めちゃくちゃ死にたくないけどね
でもその時は自分はそんなもんだった。残念でした。で終わりだ

そしてドイツへ向かった
その前にイングランドでプレミアを観た
スペインでラリーガを観た
この辺の経験もすごく大きかったけどココもきっと本編で語る

やっとドイツに着くことになる
そこまでの準備なにしたかっていうと、ほとんどない
よくサッカー留学生は留学斡旋会社みたいなところに頼むけど
僕にとっては全てを自分の力でやることが大切だったから
語学学校とその寮に1ヶ月住めることくらいで他はなにもなかった
その上海外周遊してからドイツまで来たからトランクすら持ってなかった。
リュック1個でドイツまで乗り込んできた
まあ多分これは狂ってる
けど大丈夫!僕は今ドイツで生きてる!
大体のことはなんとかなるんだ

さあ!まずすることはなに?
ビザ?住民登録?家探し?
いや ”チーム探し!!”
これが最優先だ
とにかく早くサッカーの現場に戻りたい
まだ移動手段もよくわからないからとにかく歩いた
GoogleMapで徒歩1時間半って出たら徒歩圏内だ
とにかくあらゆる現場に行った

まず向かったのはシャルケ04だ
何を隠そう僕は熱烈なシャルカー(シャルケファン)だ
内田篤人選手に憧れて現役時代はSBにポジションを替えたくらいだ
身の程というもの全く知らない僕は
シャルケの受付に突っ込んでコーチにしてくれって言った
当然門前払いだった
じゃあ練習時間を教えてくれ、そしたらコーチに直接頼むよって言ったけど
ドイツもコロナの影響で練習をオープンにするのをやめている
これは正直痛かった。
だから時間はわからないけど張り込みをした
練習があることに賭けて練習場でずっと待った
そうやって接触できたけどダメだった
普通に考えて無理なんだけどね
シャルケに行ってボルシアメングラに行ってレヴァークーゼンに行って
どれもダメだった。まあそりゃそうだ。落ち込むほどバカでもない。
ただドルトムントだけは行かなかった。僕はシャルカーだから!

じゃあ少しずつカテゴリーを下げてこうか
ブンデス2部、3部と。
最初の狙いはブンデスに近いクラブの育成年代だったから
でもここからは意外と反応は悪くなかった
現在3部のMSV Duisburgってチームでは
ダイレクターの電話番号貰うとこまでは行けた
ただやっぱり語学力が足りなかった、交渉ができなかった

そうすると次の狙いは
5、6、7部くらいの大人のカテゴリーだ
日本で自分がやってたような所と同じようなチームを探した
語学学校が終われば電車乗って歩いて練習見て監督に話しかけた
そしてついにチームは見つかった
ドイツ6部 Landesliga のDuisburger SV 1900ってチームがOKしてくれた
2回目行った時にはウェアもくれた
そうして僕は来て1ヶ月で指導者に戻ることができた
次のシーズンからかと思ったけどそのままそのシーズンに参加できた
語学の問題でそんなに練習を行う場面はなかったけど
チームの内部で監督のマネージメントを学ぶことができた
足を動かす。これが何より大切なことだって改めて学んだ


そんなことしていると
予想もしないところから幸運が舞い降りてくる
こっちで偶然知り合った日本人の指導者の方から
自分が監督するDSC99というU19 のチームに誘ってもらえた
そのチームでは監督との連携を取れたこともあり練習をやらせてもらえた
これまた普通はあり得ないことだ
来たばっかりのドイツ語の拙い僕に練習をやらせてくれたことは
本当に感謝しかないし、ここでも一生頭が上がらない恩ができた。

そうして僕は
社会人チームDuisburger SV 1900のコーチ
U19(つまり高校生)DSC99 のコーチ
つまり僕はなんの運命か
日本でやっていたのと同じカテゴリーのチームで指導者をできることになった

これがドイツで指導者をやるまでの流れだ
ここからもっと実用的な話、本編に入っていく
やっぱちょっと長かったね。







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