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Knowledge is not understanding.

連休ど真ん中
日常から少し離れた場所まで遊びに来てみた
ハイウェイを降りると
いつも見ている景色とは別空間
それだけでワクワクしてくる
アウェイな空間でアンテナを張り
目新しい情報はなるべく逃がすまじと
少々、欲深い感覚が蘇る

若い時はそんな刺激を毎日でも求めていた
生活の変化や人との出会い
自分の知らない世界を知ること
何でも出来る!と限界などは疑わなかった

沢山の失敗や挫折、後悔と荒波にさらされ
社会は厳しいと学んだ

40代を過ぎた頃、このまま穏やかな毎日が続くことを願うようになった
駆け引き、闘争心、マウント合戦、承認欲求を満たすための絶え間ない努力の世界から身を引きたかった
私には無理、頑張れない
そもそも能力無いし、もう歳だ…
成功が何かとははっきり言えないけど
日本に住み適度な仕事をしていれば空腹に苦しんだり、寝るところに困ったり、病気しても病院に行けないとかそんな事にはならない保障だけが生きてくうえでの安心であり、それでいいと思っていた今だって似たようなものである
けど、人生の仕組みなのか…
そう簡単に私に平和だけを与えるようなことはしない

もっと考えろ
もっと努力しろ
もっと苦労しろ

誰かがいうわけじゃなく、勝手にそんな焦燥感が襲ってきては、まるで怠け者であることがいけない事のような気にさせられる

トラブルが起きた時
大人になると少しくらいのことなら"経験"でカバーできる気分になる
苦労した分、今度はもう少し楽にクリアできるようにと脳がヒントを与えてくれる
経験というやつだ
考える事が嫌いなわけじゃない
本を読んで、知識が増えてく事は喜びであり安心だったり、自信にもつながるし、もちろん何より役に立つ
さて、その知識
自分の生きてる環境下にどう落とし込むか?
活かしていくか?

そんな風に、いつだって私達
成長しないといけないような気がしている

でもね、勝手に成長してるんだよね
そして常にデータは更新されている 
古い細胞が形状記憶で新しいものと入れ替わってるように、一日たりとも過去と同じ自分は存在しない

そんな風に俯瞰したことはある?
ズームアウトして「私」をみる
「私って〇〇なひと…」
自分理解出来てるから!
と思い込みがちな人は結構いる
もしかして私も無意識に口走る
けど
「私」というフィクションを信じて観覧してるのは誰でも無い"私"
その信じたいフィクションの総監督はやっぱり"私"
私が"私"と思ってるフィクション形成には
経験という素材は欠かせない
経験は知識を増やす
なら
"知識がある"🟰"理解している"は成立するか?
いったい何を言いたいのか…!?
自分でも混乱してきたので、整理

何を言いたいか?
自分はまだ充分に足りてない
努力、忍耐、向上心
アップグレードすべき⁉️
でも、何故アップグレードが必要なの?
変わる必要はあるか?
変わる事を期待しても良い
どっちでもいい
だけど、自分とは"こんな人間なんだ"というタガが外れるとどうなるか

どんな私にも自由自在に変化
理解とは
"わかる"ってこと
わかるって"分ける"が語源
"分ける"状態があるってこと
分けることはそこに自分か自分以外の境界線
もしくは、アレとアレ以外
そこに名前がつく
今日のタイトルの通常解釈とは少しズレるが
こう考えてみたい
分けるってことは制限がつくこと
ここからここまでがコレ
わからないってことは
分けられないってことであり"分ける"状態にない

それって、一旦自分の知識をリセット
もしくは違う捉え方をして概念を壊すこと

今回のタイトルはEnglio英語学習のコンテンツからの引用
こちらのコンテンツより

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