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なんだよ、やっぱ小惑星ぶつからないのかよ。

「あ、小惑星がぶつかるかもしれないんだって」


そんなニュースを見たとき、思わず心がざわついた。地球に衝突する確率は3.1%——想像よりも高い。隕石映画の主人公たちなら、この時点で科学者が「すぐに対策を!」と叫び、政府は「いや、まだ静観すべきだ」と揉め始める頃だろう。


しかし、続報を待っていると、NASAが「やっぱ衝突しません」と発表した。精密な計算をした結果、可能性は限りなくゼロになったという。


ニュースを見ながら、「まぁ、そりゃそうだよな」と思う一方で、心のどこかで「あぁ、またか」とも思った。


何が「またか」なのか、自分でもよくわからない。ただ、小惑星が地球に衝突しないことに対して、ほんの少し、残念な気持ちがあった。


日常は破滅しない


小さい頃から、私はなぜか「世界が終わる日」を夢想する癖があった。学校が退屈な日は、「このまま大地震が来たら、授業どころじゃなくなるな」とか、テスト前には「隕石が落ちてくれれば勉強しなくて済むのに」とか。


もちろん、本当にそんなことが起きたら困るし、誰も傷ついてほしくない。でも、どこかで「何か決定的なことが起きて、今のどうしようもない日常が一変する」という可能性に惹かれてしまう自分がいた。


大人になった今も、たまに思う。


「明日、世界が終わったら楽かもしれないな」


仕事のミスが重なったとき、銀行の残高を見たとき、休日があっという間に終わったとき——ふと、そんなことを考える。でも、その度に「いやいや」と打ち消す。地球は今日も普通に回っていて、明日もきっと普通に続くのだ。


破滅しないからこそ、生きるしかない


NASAの発表を見たとき、頭の中で小さな自分が「どうせまた外れるんだろ」と呟いた。そう、世の中はいつだってそうだ。「ヤバいぞ」と言われたことの99.9%は、大してヤバくならずに終わる。


・2000年問題は、何も起きなかった。

・ノストラダムスの大予言も、肩透かしだった。

・2020年の東京オリンピックも、「本当にやるの?」と散々言われながら、ちゃんと開催された。


世界はそう簡単に終わらない。どれだけ絶望的なことが起きても、次の日には朝が来て、人々は普通に働き、電車は遅延し、コンビニのホットスナックはいつの間にか新商品が出ている。


「世界が終わるかもしれない」というニュースを見て、少しだけワクワクしてしまうのは、きっと「何か劇的なことが起こるかもしれない」という期待があるからだ。でも、結局のところ、世界は続くし、自分も生きていかなければならない。


ならば、せめて、ほんの少しでも「生きててよかった」と思える瞬間を増やすしかない。小惑星は来ないし、世界も終わらない。だからこそ、退屈な日常の中で、自分で意味のあることを見つけるしかないのだ。


破滅しない世界で、明日も生きる


「結局、衝突しないらしいよ」とニュースを眺めながら、ため息をつく。少し残念なような、ホッとしたような、不思議な気持ちだ。


そして気づく。


「破滅を望んでいる自分」と「それでも生きようとする自分」が、同じ場所にいる。


まぁ、とりあえず、明日も会社に行くか。


NASAが「大丈夫」と言うなら、きっと地球はまだ続く。世界が終わらないなら、その中で自分なりの面白さを探すしかない。


小惑星は外れた。

じゃあ、生きるしかない。


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