【短編小説】妻は僕と犬だけ残してこの世を去った【3300字完結】
妻は僕と犬だけ残してこの世を去った。
生前妻は言っていた。最後の遺言ともいえよう「私が死んだらこの犬をお願い」と。
リビングのソファで犬を可愛がる妻をしり目に、僕は家族の一員らしいこの犬を可愛がってこなかった。
動物は嫌いだ。まともに会話もできないし、メシだって与えなければならない。糞便の始末もごめんだ。
妻が入院している最中、この犬の世話をしていたわけだが、妻のためを想って、嫌々こいつの世話をしていたにすぎない。
なのに、妻がこの世を去った。
昼間っから何を見るわけでもないテレビをつけっぱなしにソファでごろごろしていると、テレビの前を右往左往ボール遊びに勤しむ犬。そいつに向かって大きなため息をついてみせた。
犬、反応なし。
もしこのため息の主が妻であれば、犬は駆け寄ってきて妻のひざ元でドスンと陣取りながら、こいつは頭を撫でられるのだろう。妻と犬とは相思相愛。
僕は四二歳、犬一〇歳。人間の年齢に置き換えたならば、こいつの方が年上みたいな認識だろうか。犬種はわからない、たぶん雑種だけれど柴犬のように茶色の毛並み。サイズは僕の肩幅くらいだろうか。我が家にこの犬が来た頃に比べれば、ずいぶんと大きくなったものだ。
「おい犬!」
犬、反応なし。
「おーい、けんちゃん!」
何を血迷ったか、生前妻がこいつを呼んでいたように、自分に妻を重ねて呼んでみた。僕は少しは誰かに相手してほしかったからだろうか。
さきほどまで無反応でボール遊びに夢中だった犬も立ち止まって、僕の顔を見つめた。と思えばまたボール遊びを継続。
多分僕より先に死ぬであろうこいつとこの先暮らしていかなければならないのか。そう思うと、妻がいなくなってしまった悲しさより残念さが勝った気がした。
せめてもう少し、悲しみに浸らせてくれよ。
僕は気分転換を兼ねて散歩にでも行くことにした。犬の散歩なんてしない。一人で行く。
犬なんて家でああやって遊ばせておけば十分だろう。
僕がソファから立ち上がり、リビングのドアを開けると、カカカカとフローリングが傷つきそうな音を立てながら僕の足元までボールを咥えてこいつは駆け寄ってきた。うっ、近くまで来ると獣臭いな。
ドアの隙間を狭くして、自分の身だけスッとドアの外に身をやってすぐにドアを閉めた。
ドア越しに犬、吠え始める。
僕がこれから散歩に行くのがバレたのか? お前も行きたいのか? と少なからず同情はするが、連れて行くという選択肢は、やはりない。
ワンワンと吠え散らかす犬をリビングに残して、僕は玄関を出る。
玄関を出て郵便受けを見ると、一通の小洒落た赤い手紙があった。
――赤札か? なんて冗談を言えるほどに嬉しくなった。
これはそんな危険な匂いのするような赤色の封筒ではない。生前妻が好んでいた萩色と呼ばれる紫がかった温かみのある赤だ。
「萩っていうのはね、秋の七草のひとつで決して派手な色ではないの。でもね、この優しい色が私は好き! ね、私みたいに奥ゆかしい感じでしょ?」と若いころのお茶目な妻の笑顔と言葉が蘇り、もう枯れたはずの涙で少しだけ視界が滲んだ。
萩色の封筒を開けると、妻からの手紙と、お守りが入っていた。
まず小さなメッセージカードに、『けんちゃんと一緒に旅行でも行ってきてね ユキより』と書いてある。
バカいえよ。だれが犬と一緒に旅行なんて行くかよ。
もう一枚、A4サイズの紙を開くと、印刷されたグーグルマップに印がふたつ。
ひとつは出雲大社に大きな丸印、その丸印から線がのびてマップ外の白紙部分に『けんちゃんとお参りしてきてね』と。
もうひとつは出雲大社の近くのレストランに丸印。またその丸印から線がのびて白紙部分に『美味しいごはん食べて帰ってね(代金支払い済み)』と予約日時と共に書いてあった。
まったく、ユキのやつ。
代金支払い済みなんて書いておけば、貧乏性の僕がまんまと行くだろうとつまらん小細工を……。
マップ下の白紙部分にも一言『このお守りをけんちゃんの首輪につけてお参りしてね』と添えられていた。
僕は散歩に行こうとした足を転じ、再びリビングへ戻ると犬は飽きもせずにボール遊びしていた。
「なあ犬、旅行行くか?」
犬、反応なし。
プッ、思わず吹き出してしまった。柄にもなく犬に話しかける自分自身。それと、こいつも僕のことが嫌いなのだろうと感じざるを得ない反応に。
やっぱ行くか。レストランの代金もったいないし。
まったく、本当にユキは昔から僕のことをよく理解している。別にレストランの予約をキャンセルすれば済むことなのに、それもなんかレストランに悪いし、かといって支払い済みの代金をドブに捨てると思うと貧乏性の性が発揮される。そんな僕をよくわかってるよ。本当に。
迎えた旅行当日。
僕はこいつの首輪に萩色のお守りをしっかりと括り付けた。喉元でプラプラとお守りを揺らしながら、ベロを出してへっへっへと笑っているかのようにこいつは口角を上げていた。
犬を自家用車に乗せて走るなんて、勘弁してくれよ。座席が犬の毛まみれになってしまう。助手席に犬を乗せて、窓から犬が顔を覗かせて走っている車を見るが、道路交通法はセーフなのか。というか助手席に乗せたはいいけど、シートベルトとかいらないよな? まあいい、
「行くぞ」
そう、ぼそっと呟くと犬はこちらを見た。
早朝から約五時間ほどノンストップで車を走らせた。
出雲大社近くの駐車場に着き、こいつの首輪にリードを付けて出雲大社前から縦に伸びる神門通りに向けて歩みだす。
縁結びの神様……か。
神門通りを渡り過ぎ出雲大社境内を目指すが、なんてことはない。出雲大社に来たのは初めてではないし、さほど新鮮さもなかった。たしかに二〇年ほど前に来た時は神門通りにこんな華やかな店はなかったし、人力車なんてなかった気がする。
出雲大社の境内に着いて、散策する。境内はあの時見たものとさほど変わらなかった。神門通りとは対照的に文化財然とした装いに、幾年経とうとも変わらぬ姿に遷宮の努力の名残が伺える。
境内から出て帰りの神門通り、人力車の横を通ると待機する車夫が声をかけてきた。
「可愛いワンちゃんですね、おかげ犬みたいです」
「おかげ犬ですか、面白い発想ですがこいつは妻の忘れ形見というか……」
おかげ犬、出雲大社にそのような風習はないはずだ。伊勢神宮であればまだわかるが、伊勢神宮であっても現代において本人の替わりに犬を参拝させる風習など残っていない。しかし言われてみれば、妻のおかげ犬としてこの出雲大社を参拝しているとも言えるかもしれない。
妻が予約したレストランで食事を終え、長時間運転して家に帰るとまた一通手紙が届いていた。
萩色の手紙。
『参拝お疲れ様。けんちゃんに付けていたお守りの中身、開けてください。私からの最後のメッセージがその中に入っています。 ユキより』
犬からお守りを徴収し、開封する。
中に入っていた細かく折られたメッセージカードを開くと、
『あなたに新しい出会いが恵まれますように』
生前の妻との会話が蘇る。
――仕事人間で家事もろくにできないあなただから、犬一匹ちゃんと世話ができるか不安だわ。
――バカいえ、家事くらい僕一人でもできる。
――ねえ、もし私がいなくなったらまた新しいパートナーみつけるんだよ……。
――何言ってんだよ、もうアラフォーだぞ。相手にしてくれる女なんていねえし、それに……、
――それに?
――(お前が好きだから、なんて言ってやるかよ)いや、なんでもねえ。
はあ、なんだよもうまったく。ユキのやつ…………まったく傲慢で自分勝手な女だ。まあお前の言いたいことはわかったよ。
仕事しかしてこなかった僕は他の女をたぶらかす度胸もない、でもひとりぼっちだと本当はさみしいのにそれを口にして言わない。
ほんと、してやられた気分だ、
「なあ犬、僕のパートナーとして上手くやってこうぜ」
「ワンッ!」
犬、小気味よく吠えた。