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【短編小説】わたしは、
エブリスタのコンテスト【涙の理由】に出している作品です。
ページの概念があるエブリスタのほうが読みやすいかもしれませんので、一応リンク貼っときます。
わたしは。木です。この保育園で苗木から育ったけやきの木です。ここ最近は園長先生が「敷地からはみ出て困ってるんですよ」と、庭師のおじさんへ相談しておりました。いっそ根本から切って木材にしちまうか。敷地からはみ出た部分だけ切り落とすか。そんな物騒な話をわたしのふもとでしていました。
だからわたしだって、枝木を伸ばしすぎないように努めているというのに。人間たちは自分勝手で適いません。本気を出せば根をもっと拡げて地面を持ち上げることだってできますよ。でもそうすると、わたしの前にある砂場を壊してしまう。そのくらいの配慮はしているつもりなんですがね。
揺れる枝葉の影を背にして、ひとりの男児が砂場で一生懸命に遊んでいます。
彼は砂場が一番のお気に入りのようで、保育士さんが昼食の時間だよと諭してもそこから動きません。「や」の一言だけ乱暴に言い放って保育士のお姉さんをいつも困らせています。
「ほら、おともだちも中にいるよ」
「や!」
保育士さんも彼だけにかまっていられないようでして、女児が「しぇんしぇ、しぇんしぇ、あのね、あれみて」と、保育士さんの腕を引っ張り、園舎に連行していきます。彼は砂場にぽつんと取り残されてしまいました。
彼はいつもひとりぼっち、砂場で遊んでいます。園舎のほうでは、連行された保育士さんが女児の頭を撫でている姿が見えますが、保育士さんはちらと彼の様子を心配そうにうかがっております。
けれど彼はそれが寂しいとか、かまってもらえないとか、そんな風にすねてはいないようでした。
本当に砂場遊びが好きで、飽きもせずプラスチック製の星の型に砂を詰めていきます。そして砂場を満天の星空にしてしまうんじゃないかってくらいに、ペタペタとそこあたりじゅうに星を作っていきます。こんな光景を何度目の当たりにしたでしょうか。彼は入園したときからずっとこうでした。
彼は一日中砂場で遊ぶ日々を過ごしていました。
この日は天候がよくありませんでした。小雨が降ってきました。ですが彼は少雨程度ではへこたれません。今日も満天の星を砂場に描いていきます。
もう年長さんです。賢くなりました。バケツに水を汲んできて、乾いた砂に水を与え、湿らせてから星の型に詰めます。ぎゅうぎゅうっと砂を星の型に押し込んでから、砂場の地に勢いよく星の型を押し付けます。星の型の裏っかわをとんとんっと叩いてあげて、型を慎重に持ち上げ、星の出来上がり。慣れたものです。
ひたすらこれの繰り返しで、砂場のキャンバスに星空を描いていきます。
雨が強くなってきました。彼は天を見上げ、肩を落とします。どっと疲れたかのように重い足取りで砂場から離れます。わたしのふもとに彼はやってきて、雨宿りをします。彼は、満天の星に成り切れなかった砂場を見つめ、強い雨粒によって溶けていく砂の星を眺めています。無表情です。
保育士さんが園舎から、彼に声をかけます。
「おーい。雨だよー」
保育士さんが手招きします。彼はあえてその動作を視界にいれないようにじっと砂場を見つめているようでした。彼が何を思っているのか定かではありません。ずっと無表情ですから。ただし一生懸命につくった星空が壊されていくさまを見て快く感じることはないでしょう。
彼はわたしの幹に背を預け、砂まみれの自分の両手をはたき、天を見上げます。
早く止んでくれないかな。幹に伝わってくる彼の冷めやらない背中の熱が、そう言っているようでした。
わたしは。学習ドリル「たのしいかんじドリル」です。小学二年生の彼はわたしたちが嫌いらしく、わたしの友人の「たのしいさんすう」さんなんて開かれたことすらないよって嘆いていました。彼のお母さんも困っているようで、うんこのキャラクターや、すみっこぐらしのキャラクターの入った学習ドリルまで用意しましたが、それでも彼は学習ドリルなんて目もくれません。
もっぱら彼の愛する対象は「じゆうちょう」さんでした。それともうひとつ、彼のパートナーのイケてる定規さんです。ハートやクローバー、桜の花びらや傘マークが縁どられたあなっぽがいくつも空いている定規さんです。
定規さんに鉛筆のあとが黒々ついているあなっぽは星型だけでした。
彼は定規の星型のあなっぽを使ってじゆうちょうに満天の星を描きます。すべてのページが星空だけで埋まっても、また新しい「じゆうちょう」さんに星空を描きます。満天の星を描き終えると彼の瞳からはいつも、涙が伝います。彼が星を描くさまは、何かを探しているようでした。
「宿題でしょ。ドリルやりなさい」
お母さんは彼に学習ドリルをやるように促します。わたしはお母さんの目の届くリビングの机に置かれました。吹き抜けのキッチンでお母さんが流し台から目を光らせています。
彼は仕方なさそうにわたし「たのしいかんじドリル」を開きます。まっさらなわたしを見て、鉛筆を持ち上げます。
お手本の「右」の漢字に書き順が丁寧に記してあります。彼はこの横のマスに、お手本に倣って書いていけばいいのです。
彼はその四角く囲ったマスに「右」、ではなく、星を描きました。勉強しているふりをしながら、わたしにも満天の星を描いていきました。
わたしは。上履きです。中学二年の彼が登校してくると、わたしを履きます。彼の成長を考えると、そろそろわたしもお役御免かもしれません。親指のあたりがそろそろ破れてしまいそうです。入学式からわたしは彼の成長を見守ってきました。友達と呼べそうな人は残念ながら現在いません。
入学当初こそ彼は頑張っていました。運動は苦手でしたが、わたしを脱ぎ捨て外履きに履き替えて外でサッカーを同級生たちとやっていましたし、流行りのアニメも同級生の輪の中で一緒にお話しをしていました。
彼がそのアニメを嫌いだったのか、視聴していなかったのかわかりませんが、輪の中で友人たちの会話の流れに同調しているだけのような印象でした。そしてそれは同級生たちも感じていたのでしょう。少しずつ彼は輪から除外されていきました。
現在はいつもひとりぼっちで学校生活を送っています。しかし彼はそこまで落ち込んでいないようです。きっとこっちの方が性に合っていたのだと思います。でも孤独を好む彼を、まわりの人たちは許してくれませんでした。
悪い顔した男子たちによって、わたしは掃除用具入れの中に隠されてしまいました。早朝のことでした。わたしがいなければ、彼は登校してきたときに困ってしまいます。自分が自ら動けないことをこんなにも悔やんだことはありません。わたしも人間のように足がついていて、自分の意思で動けたならどれだけ良かったことでしょうか。彼が気の毒でなりません。
幸いにもわたしは早々に救出されました。担任の先生が朝礼の後すぐに見つけ出してくれ、彼の足元に収まりました。話によると、悪い顔した男子たちが掃除用具入れに何かを入れるのを、クラスの女子が見ていて先生に教えてくれたらしいのです。助かりました。
その後彼は職員室に呼び出されました。担任の先生は、神妙な面持ちです。
「大丈夫か」
「はい」
彼の表情を伺いますが無表情です。下から見る限り、泣き出しそうな様子もなく、反対に強がっている様子もありません。
「……そうか」
「はい」
「なにかあったらすぐ先生に言ってくれ」
「はい」
はいの二文字だけしか述べませんでした。
いや、最後にぼそっと「……りがとうございます」と呟きました。ですが先生の耳には届いていません。彼は、気にかけてくれた先生に少なからず感謝しているようでした。職員室を出た後にも、「先生、先生か。……ありがとう先生」と囁いていました。相変わらずの無表情ですが、先生から受け取った感情で軽い足取りでした。
彼はだれかの感情を過敏に享受します。その受け取った感情を自己表現してお返ししてあげることが苦手なだけなんです。いつも無表情になってしまいます。不器用なだけで、彼はだれよりも人の心に敏感で、優しいのだとわたしは思います。
教室に戻り、生徒が向ける視線が痛かったと思います。彼が教室に入り、ざわつきが一瞬にして静まり返るさまは見ていてつらかったです。
それでも彼は何事もなかったかのように自分の席に腰掛けました。まるでそれが自分の役目だと、それが宿命だと受け入れてしまっているかのようでした。
引き出しからノートを取り出して、彼はそこに何か記しているようでした。わたしからは何を書いているのか見えませんが、鉛筆の音だけが机ごしから伝わってきました。
書き終えたようで、彼が椅子の背もたれいっぱいに仰け反りました。彼の瞳は潤んでいるように見えました。きっと、泣いています。
わたしは。蛍光マーカーです。文房具屋で彼に出会い、もう二年の付き合いです。
「学生手帳があれば、20パーセント引きだよ」レジで店主が言いました。
「はい」
彼の学生手帳が提示されました。高校一年生でした。これが彼との出会いでした。ちょっとオーバーサイズ気味の学ラン姿が初々しく感じましたが、今ではその学ランのサイズも、まるで彼がここまで成長するのを見越したかのようにジャストフィットしちゃってます。あれだけちっちゃかった彼も高校三年生になり、大きくなりました。
彼のパートナーこそがわたしです。教科書にも参考書にも、わたしが活躍します。でもそろそろ限界かもしれません。たっぷりのインクがあった時代に比べると薄くしか線を出力できません。わたしもこの運命には抗えませんので、そのときが来るのを覚悟しています。
重要なところには別の蛍光マーカーが用いられていました。わたしはマーカーの中でも彼の中で特別な存在だと自負しています。わたしが使われるのは、その重要箇所の、さらに重要だと思われたところに彼が特別に星マークを追記します。そんな役割を担っています。ですからわたしの出番は基本的には少ないのです。
しかし彼はときどきわたしを乱暴に扱います。そこがまた男らしくって惹かれてしまうのです。
彼が苦手らしい数学の問題を解いている最中、彼はわたしを掴んで、白紙へ縦横無尽に星を書き殴ります。それはそれはいっぱいの星です。その白紙が無秩序な満天の星に変わると、彼はなぜだか泣いてしまいます。涙が引っ込んだらまた数学の問題に取り掛かるのです。集中するための儀式のような、休憩のようなものでしょうか。どちらにせよ、わたしが一番に活躍する場面です。
わたしのカラーはブルーです。ちょっと濃いめのブルー。他には目が刺激されるようなイエローや、可愛らしいピンクのマーカーさんもいらっしゃいます。三色ボールペンさんなんかもいます。それなのに、星を描くとき、彼はいつだってわたしを選んでくれます。
彼の部屋にお父さんがやってきて、こんな会話をしていました。
「先生になりたいんだってな」
「はい」
「志望校には行けそうか」
「はい」
わたしは。ジッポライターです。金属音をカチャッと響かせ、シュボゥッと音を立ててオイルを燃焼し、ハードボイルドな香りを伴い火を上げます。彼が咥える煙草の切っ先に着火するのがわたしの役目です。
彼はいつも美味しそうにその煙を吐き出します。その煙はまっすぐと進み、まぶしい光とアクリル板にぶつかります。パチンコ台です。
彼のまわりには悪友らしき友人が何人かいました。彼が遊戯している最中も同じ大学生らしい悪友が「どうだ?」と声をかけてきます。「勝ってるか?」と。
そんなことは彼の台の前にあるすっからかんのドル箱を見ればわかるはずです。今日彼は負けています。
彼は無表情で答えます。
「だめ」
言うと悪友は彼の肩を叩き、「がんばれな」と言って去って行きました。
彼はここのところこのホールに入り浸っています。つるんでいる連中も、あまり良い人間とは思えません。彼が勝っているとすぐにかねを無心してくるような連中です。
しかしながら彼とて、悪友たちからかねを借りています。類は友を呼ぶといいますが、どこまで堕落するつもりでしょうか。
そんな調子で、彼は本当に学校の先生になれるのでしょうか。まあわたしの知らないところで勉強を頑張っているのかもしれませんが、わたしはいつも彼の悪い部分ばかりに目が行ってしまいがちです。
結局彼は今日も負けて、晩御飯は牛丼屋の牛の入っていない安い定食でした。
食べ終え、牛丼屋の外で一服します。彼は煙を夜空に向けて吐き出します。冷気と街頭で白さを増したその煙は漂い、次第に闇に溶けていきます。
彼は煙草の箱『SevenStars』に描かれた星を指でなぞり、無表情のまま頬に光の粒が伝います。
彼は涙を引っ込めるように天を見上げます。その視線の先にはたくさんの星が輝いていました。その星々に向かって彼は煙を吐き出します。
また、大粒の涙がこぼれました。
わたしは。教卓です。めぐり合わせ。運命。そういう因果はあるんでしょうね。わたしは木製です。素材はけやきです。そう、あの保育園でけやきの木をやっていました。
砂場で満天の星をいつも描いていた彼が、まさか先生になるなんて思いもしていませんでした。
しかし現実はそう甘くないようでした。小学校の先生になった彼の学級は崩壊気味です。生徒は小学校二年生の子供たちです。
彼は園児のころからそうでしたが、喋るのがあまり得意ではありませんでした。三〇人もいる子供たちを束ねることに苦心しているようでした。
終礼の時間ともなると、子供たちに集中力など残っていません。彼の言葉に生徒は耳を貸さず、だれもが雑談に興じざわついています。席を立って早々にランドセルを背負い、扉の前で待機している男の子すらいます。
無法地帯と化したこの教室で、彼は連絡事項やらを話しますがその声も、生徒の耳には届きません。
彼は宿題のプリントを配ります。前の席の子に渡して後ろに一枚ずつまわさせればいいものを、彼は律儀に生徒ひとりひとりに「よろしくね」と言葉を添えて渡しています。
「さよならのあいさつまだー?」
扉の前で待機している男の子が騒ぎ始めます。呼応するように、
「せんせおそーい」
と他の生徒たちのブーイングが畳みかけてきます。
それでも彼は表情ひとつ変えずプリントを配布していきます。扉の前の男の子にも怒ることなく、「よろしくね」と言って手渡します。
あまりのとろさに見かねたのか、日直が「きりつ、れい。さようなら」と声を大にして号令をかけてしまいました。
「さようなら」子供たちがみな声をそろえて発します。
残酷な終わりの合図でした。生徒たちがきれいに声を揃えて言うさまが秩序をもって統一されているからこそ、この教室の無秩序さが際立っているようでした。
扉の前の男の子は教室から飛び出していきました。プリントを受け取った生徒から次々に、教室を飛び出していきます。足踏みして「せんせはやくはやく」と残された生徒たちが急かします。彼のもとに生徒たちが寄ってたかって彼の手元からプリントを奪い取り、去っていきます。
あっという間に教室から生徒がいなくなりました。
彼以外だれもいなくなった教室で、彼はおもむろにチョークを手にし、黒板に描き始めます。――満天の星を。
外が暗くなるまで、彼はひたすら黒板に星々を描きました。白、赤、青、カラフルに黒板を星で埋めていきました。気づけばもう夜でした。
外を見やると、流星群が夜空を駆けていました。
それでも彼は星をひたすらに書き殴ります。もう、黒板は星まみれ、彼の服はチョークの粉がいたるところに付着し、汚れています。
彼は手を止め、窓の外を見ました。顔も、ぐちゃぐちゃでした。流星群が通過したかのような光の残像を頬に残しています。それは、チョークのマーブルカラーが絡みついて、さらにはそれを強引に手で拭き取って、余計に顔はぐちゃぐちゃになりました。
わたしは――。
わたしは、星です。わたしは彼のすべてを見てきました。もちろん彼がわたしに特別な感情を抱いていることも知っています。しかしなぜでしょう。わたしは悲しくてたまらない。星に祈れば願いは叶うのでしょうか。いいえ、きっと彼は叶いようもなく報われません。そういう星のもとに生まれてきてしまったから。きっと、そう諦めるしかないのです。
彼が星を描ききったとき、必ず涙がこぼれます。その涙は決して涙腺を刺激する悲しい出来事の記憶から来るものではありません。むしろ、彼は星を描くことに、心の中にある「届かないもの」の存在を痛感するからこそ泣いてしまうのです。
星は、彼にとってはただの美しい輝きではないのです。彼が星を見上げるとき、それは夜空の果てに浮かぶ「何か」を象徴しているのです。遠くにあって、決して手が届かない。近づこうとすれば、光がより一層遠のくような感覚。それは、彼の手のひらに触れたかった大切な人、モノ。届かない、見えてこない自分への憎悪、そして、終わることのない約束。星はそれらが交錯する場所で、彼の届かない「何か」で輝いているのです。
彼は、星を描くことでその何かを一瞬でも形にしようとしています。ですがそのたびに、彼の描いた星は光ることなく、指の隙間からこぼれ落ちていってしまうのです。
引き裂かれるほどに痛い、しかし空虚な感情がどこからともなく浮かび上がり、波のように押し寄せてきて、涙となって流れるのです。わたしはその涙の理由に、強い意味があることを知ってほしいと願うのです。
わたしの光が彼の涙に一直線に飛び込み、吸収され反射せず、でもたしかに、彼の心の中をわずかに通過しています。その光は、夜空に浮かぶ星であり、わたしでありました。彼の描いてきた星々であったとも思えます。
わたしは。わたしは、これからも彼を見守り続けます。