大人になるとケガをしたくないから、慎重になる。
子どもの頃は危険な事がわからず、
学校では朝礼台の角に思いっきり頭をぶつけてそのまま病院送りになり、額を縫うケガをした。
友達と遊んでいる時に崖から落っこちて竹がお腹に刺さったけど自力で治したり、石で野球をやって打たれた石が頭に当たって流血して、石で野球やっちゃダメだと学んだり、血を流した数は数えきれない。
あんなにケガが絶えなかったのに、今も生きている。
けど、いつからか危ない事は想像できるようになりやらなくなった。
血を流すことも少なくなってきた。
”ケガ”は肉体的なケガだけじゃない。
一方で”心”だってケガをする。
幼い頃からさまざまな事で心も傷ついてきたはずだ。
けど、どうしてだろう。
大人になると肉体とは逆に心の傷が増える事だってある。
すぐに治らない事がってある。
集団の中にいるといろんな”凶器”が飛び交っている。
無言の圧や責任という重圧、複雑化した人間関係、話の通じない上司。
そんな日常なら誰だって疲弊する。
そんな疲弊しまくっている時に飛んでくる”言葉の凶器”により心が大怪我をしてしまう。
体を傷つけれられれば”血”が流れるが、心を傷つけられれば”涙”が流れたりもする。
どんなに強靭な肉体を持っていても、鋭い刃物で刺されたら血が流れるし、急所を突かれたら重症化する。
心だって、どんなに強靭なメンタル持っていても、鋭い言葉で刺されたらメンタルが崩れて涙が流れるし、突かれたくない部分を突かれたら心が重症化だってする。
メンタルとは自分自身の不甲斐なさを感じてしまった時や、誰かからの言葉などによりいとも簡単に崩壊してしまうものである。
メンタルとは鍛えるものなのか、補うものなのか?
ギリギリの状態でいる人たちが溢れている社会で、自分の心を使ってまずは相手の心を理解したコミュニケーションを心がけたい。
中には傷つけられまくって、自己防衛のために行動を抑えてしまったり、引きこもってしまう事だってある。
怠けているのではなく、ケガをしたくないから、慎重になっているだけ。
人が怖いと思ってしまったり、自分が傷つく事を極度に恐れてしまう人は、子どもの頃からたくさん心のケガをしてきた人だと思う。
だけど、そのように”人の痛みがわかる人”は人を傷つけることをしない優しい心の持ち主だということは間違いない。
一人、また一人、周りでメンタルが崩れていく現代社会から無意識な加害者にならず元気を与える側になっていたいと大自然の中でパソコンを開き、コーヒーを飲みながら綴っていた。
草がボーボーすぎて、いつものいい景色が観れない。笑
ノストラダムスは今の社会を予言していたのだろうか。