
風早ハ兎文一茶両吟/門前やの巻
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相そりに噺の長き比丘尼共
猶川留の雨にしあれは 一茶
名オ三句、越すに越されぬ大井川、幕府の命で架橋、通船が禁じられていました。
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猶 重ねて(何日も)
川留の かわどめ。水が増し四尺五寸を越すと「川留め」になっていました。
雨にしあれば あめ・に(格助詞)・し(副助詞)上にある語を強調する・あれ(ラ変動詞の已然形)・ば(接続助詞)原因、理由をあらわす。
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あいそりに はなしのながき びくにども
なお かわとめの
あめにしあれば
前句長話に、東海一の難所・大井川の川留と付け、江戸時代の旅の様子を長閑な句にしていました。しかも「雨にしあれば」と、わざと古い歌のことばを使って俳諧味を出していたのです。
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一茶の発句に
大井川ついつい虫が澄ましけり
大井川見へてそれから雲雀哉
蜻蛉の尻てなぶるや大井川
秋風や水かさ定まる大井川
蕪村に
みじか夜や二尺落ゆく大井川
みじか夜の闇より出て大井川
さみだれの大井越たるかしこさよ
芭蕉に
さみだれの空吹おとせ大井川
馬かたはしらじしぐれの大井川
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曾良宛て芭蕉書簡に
十五日之晩方 嶋田いまだ暮不果候間 すぐに川を越可申哉と存候へ共 松平淡路殿かなやに御とまり 宿も不自由に可有と 孫兵衛方音信候へば 是非共にととゞめ候
川奉行役之ものに而候へば 「いかやう共川をこ可申候間 先とまり候へ」と申内に 大雨風一夜あれ候而、当年之大水 三日渡り留り候
元禄七年(1694)閏五月二十一日付
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書簡は芭蕉没年の年のことです。
芭蕉の大井川越えはこれに尽きていたのですから、将に「越すに越されぬ大井川」。
曽良宛真蹟が尊ばれている所以なのです。
13.10.2023.Masafumi.
■画像は、芭蕉の付け句。「やはらかにたけよことしの手作麦 如舟 田植とともにたびの朝起 はせを 元禄七年五月雨に降りこめられてあるじのもてなしに心うごきて聊筆とる事になん」と。(島田市博物館)
この付け句に想を得て、曽良宛て書簡にある荷兮・傘下の句が整ったようです。即ち「麦ぬかに餅屋のみせのわかれ哉 荷兮 別れ端やおもひ出すべき田植哥 傘下」と。