「見る」にまつわるエトセトラ
今回は「見る」のエピソードを。
昨年末、久々に母と面会できた。
大腿骨骨折をしてから、母は車椅子生活になった。
ホームのロビーのソファーをひとつ
母のために動かし、テーブルを挟んで2人で話した。
ホームに入ってから、少しずつ、母の認知症は進んでいる。
自分の夫(私の父)が亡くなったことは理解しているのに、自分の父(私の祖父)が亡くなったことは理解できず
祖父の話をすると目を丸くする。
(だからなるべくその話題は避ける)
話をしながら、ロビーの大きな窓の外に目をやる。
カーテン越しに、ピンクの花が見える。
「百日紅?」
「百日紅って夏じゃない?」
「じゃあなんだろう?」
「見てみようか?」
私はソファーから立ち上がってカーテンを開けた。
そこには百日紅ではなく、薔薇のような花を咲かせている木があった。
割と大きな木。
「薔薇かなぁ?薔薇っぽくない?」
私が母にそう伝えると、母は車椅子から立ち上がって窓際に来た。
母がまさか歩くと思わなかったから
たった数歩の距離とはいえ
転ぶんじゃないかと私は焦った。
窓際の手摺りに捕まりながら
2人で謎の花について話す。
「棘があるから薔薇じゃない?」
「もう終わりそうだね」
取り止めのない会話の中で
ふと母が
「顔を出して咲いてる」
と言った。
顔を出す?
どこに?
こっちを向いている花はなく
顔をどこに出しているかもわからない。
うーん、どういうことだろう?
と、花を眺めていると
答えが見つかった。
花が一輪、生垣の向こう、道路に向いて咲いていた。
これかぁ!
と、納得した。
母の「顔を出す」という表現が素敵だと思った。
そう思う感性が素直に素敵だと思えた。
母が、すみっこに咲いてる子に目を向けたことも素敵だと思った。
私は気づかなかったけれど。
同じ花を見ていても、見ているところは違う。
同じ花を見ていても、感じ方は違う。
改めて「見る」というを感じた瞬間だった。
母は車で出かける時いつも
窓の外の景色を眺めては
「あの家の庭がどうだ」
「あそこに鳥がいる」
「あの家が素敵だ」
「夏みかんがあんなになってる」
等々
とにかく見つけたモノ全てを口にしていた。
子どもの頃からそう。
正直「五月蝿いなぁ」ぐらいに思ってた。
でも今、自分も同じことをしている。
旦那さんに付き合ってもらっている(笑)
遺伝したなぁと思うけれど
写真を撮る時必要な目だと思うから
ありがたいなぁと
今は素直に思える。
あの花
なんの花だったのかなぁ…。
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