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《小説》 幻想少女カルテ 第2話
私は、この小さな町で診療所を経営する医師だ。
場末の退屈な町ではあるが、生活にこれといった不便は無く、住人も皆穏やかで世話好きで、よそ者の私をすぐに受け入れてくれた。
赴任して、はや数年。今ではこの町が第二の故郷とすら思える。ただ一つ、気になる事があるとすれば――
私の診療所を訪れる患者たちは、皆どこか不思議なのだ。
第2話 ハツエ
私の診療所には2つのベッドがある。
どちらも恩師から譲り受けた安物で、うち一つは何かが乗るたびに形容しがたい音を発する。
ある人は猫の鳴き声だといい、またある人は鈴虫だと語る。ちなみに私には空腹の音に思えた。
もちろん音を止めるべく幾度も手入れを試みたが、目星の箇所を補強する度に、別の場所がまた新たな異音を奏でるのだ。
「今は、何?」
音がしない方のベッドへ仰向けに寝転んだまま、ハツエくんがそう問いかけた。16歳相応の伸びやかな手足で、控えめな大の字を描く。
もっと制服の裾を気にして欲しい所だが、たしなめれば逆にからかわれるのだろう。
「黒板の」
言いかけた私を、彼女の声がさえぎった。
「あー、思い出すのも嫌な系だ」
両手の平で左右の耳を塞ぎ、しばし声を上げ続ける。短めな髪が大きく揺れるほど、左右に頭を振る。こういうどこか芝居がかった動作が、なるほど、演劇部特有なのかもしれない。
はめ込み式の二重窓、入り口の目張り、知人から借りてきた防音カーテンらを次々とチェックする。それらの目的は、この診察室の外部になるべく音をもらさない事にある。晩秋とは言えこれだけ密閉するとやや蒸せるものだが、致し方ない。
「防音施設を借りられたなら、良かったんだがね」
それに類するものは、近隣の学校くらいにしか無い。だが何れも彼女の母校や学び舎である事から、例え使用許可が降りたとしてもあらぬ噂が立ちかねない。
「先生、色々用意してくれたんだ」
やおら彼女はベッドにうつぶせると、薄いシーツに顔を埋めたままくぐもった声で「ありがと」と続けた。
私はベッドの傍らで集音装置の組み立てを終える。装置といっても中古のラジオカセットと繋いだマイクスタンドへ、すり鉢型にした画用紙を貼っただけのものだが、ともあれ準備は完了だ。
私は、彼女に左耳が見えるよう寝転んでくれと勧めた。ややあって彼女は体勢を整え、小柄な頭を薄い枕へと横たえる。
「今日は私の右側へまわりませんか?」
奇妙な提案にしばし戸惑うが、目標が左耳であり右側からは作業がやり辛い旨を説明した。
「顔見上げながら、してみたかったな」
彼女はぼやきながらも、ごそごそと頭と体の定位置を模索した。隙を見せてなるものか。ためらえば、からかいのネタにされ彼女の診察は幾らでも長引くのだから。なまじ会話の調子が良いぶん、憎めないのも問題だ。
さて。
私は傍らに用意しておいた円筒型の細いプラスチックケースから、今回の診察器具を取り出した。
とある匠が、煤竹から削り出した珠玉の一本。ヘラの角度は一般的なのものよりやや深めだが、そのぶん応力がかけやすく、目標物を掬い取る力は通常の3割り増しはあろうか。それでいて丹念に磨かれた先端は例え赤子の肌であろうと、そうそう傷つける事はないだろう。
ヘラの逆にある毛玉、いわゆる梵天はオミットされているが、かわりに小さなこけしがはめ込まれている。これはいわゆる遠刈田系こけしであり、特徴的な頭頂の赤い放射状の飾りは元より、柔和で素朴な笑顔と胴体の梅と菊の模様までもが精緻に刻まれていた。
耳かきである。
ハツエくん自らが持ち込んだ、専用の。
なお、この無駄に値の張る道具の使用が特に診察の成否を分ける要素でない事をここに記しておく。
「はじめるよ」
私は、彼女の背後に据えた椅子へと腰掛けると小さくも底しれないその耳の穴へ、手にした耳かきの先端を慎重に滑り込ませた。先端の侵入に合わせて彼女の肩が、ひくりひくり、と声も無く忍び笑う。
やはりこの深度には“無い” 私は耳かきを更なる深部へと滑らせた。微かな産毛が輝く少女の耳穴の、更なる深淵へと。
「んき」
とたん、ハツエくん口から意味を成さない言葉が飛び出した。とっさに両手で口を覆ったが、まるで間に合わなかったようだ。
仄かに紅潮した左の頬を見つめながら私は、続けられそうかい?と問う。彼女は頭を揺らさないよう小さく、だが通りの良い声で応えた。
「だぃじょうゆ」
感覚を押し殺した反動か、舌足らずだ。私はタイミングを伝えつつ、再び耳かきの先端を下ろす。
最深まで八分のあたりに「それ」はあった。
先端で触れると、まるで風船のような弾力がある。私は彼女に発見を伝えると、目標の下部にヘラ先を入れ込むため内耳の側面から先端を降ろす。
手ごたえを感じた。確かな。
ついに、ヘラの上に「それ」の底辺を捉えた。そのまま建機のように外へと運び出す。まもなく内耳を抜ける事を彼女に伝える。防音、録音ともに可能な限りの用意はやり遂げたはず―
『はっぶしょ、おらあ』
「それ」は彼女の声だった。
言語とは言いがたいが、明らかに。目に見えない“それ”は内耳の外で弾けて彼女自身の声となり、部屋中に響き渡ったのだ。
「くしゃみかな」
私の考察は的を射たらしい。
彼女の耳が朱を帯びて行く。
「あのね、お父さんが悪い」
横顔でもわかるほど唇を尖らせ愚痴ている。彼女の父は、大柄で気風のよい建設業勤務の壮年男性だ。診療所の手入れの折、しばしば顔を合わせる。なるほど、彼女のくしゃみの語尾は、まさに彼の口癖のそれだ。
「次は、可愛くエレガントにしてみせる」
好きな女優の演技をあげて、彼女は自らの新しいくしゃみを模索していた。
◇
これが彼女、ハツエくんの症状だ。
その左耳は生活上で聞いた“印象深い音”を、その中へ録音する事が出来るのだ。
初診で私は、これが彼女の腹話術か何かによる悪戯ではないかと考えた。だが、音の種類は人語のみならず、動物の鳴き声、機械音、複数の楽器演奏を伴う音楽の一部など多岐に渡っており、人類の口では到底再現しがたいものに思えた。
その原理の解明は困難を極めた。
ほどなく私は録音を慣行し可能な限りの解析を試みたが、それら音声が現実のものと程近い、という程度の事しかわからなかった。
ひとまず現状の仮説では、彼女の声帯が数多の音声を発せられるほどに特殊であり、過去の記憶を元に声帯で作られた音が、左耳へ抜けて発せられているのでは無いか?と、してはいるが…
では、私が掘り出した
“見えないそれ”は何か?
内耳で生成された不可視の皮膜か何かに、音が記録されているのだろうか?そもそも、なぜそんなものが彼女の左耳のなかで生まれるのだろうか?
「わ、つぎ出そう」
あわてる彼女をなだめ、私はすぐさま次の「音」を掘り出すべく耳かきの先端をまたもその内耳へと沈めた。
『消えろ、消えろ、
つかの間の蝋燭(いのち)よ。
人生は歩く影にすぎぬ』
それはマクベスの一節だ。
学園祭の演目として、現在準備中との事だ。ちなみに今の声は映画からの録音であり、同じセリフをつぶやくハツエくん自身の声も、直後に録音されていた。
『 Dhe‐Dhe - Po - PoPo - 』
鳩である。
彼女の朝はキジバトに操作されつつあるのだという。やつらのリズムは人を幸せな二度寝に誘う、悪辣な音波であるらしい。
『この電車は当駅までです』
都市圏へ向かう途中の電車のアナウンスだとの事だ。有名なアナウンサーであるらしく、ハツエくんは彼の深く豊かなバリトンを「マダムにたいへん有効な、ある種の兵器」だと評し、熱く語った。
◇
次から次へと転がり出す“音”平均して、約3秒。
合計約1分前後の録音が可能だが長時間、耳に音を溜め込込んでいると、彼女は倦怠感に苛まれるのだ。なお一部ではあるが“印象深くても記録できない”音というものがある。それは彼女自身の好みに起因するらしい。
曰く、すり合う発泡スチロール、黒板と爪、すりガラスに針など、広く生理的嫌悪へ繋がるとされている音は、いくら印象深いものであっても彼女の耳がそれを記録する事は無いらしい。
つまり録音対象の基準は、本能的にも理性的にも彼女自身の快楽へ繋がっているのだ。本日最初のくしゃみもまた、そうなのだろう。
― 近所の子猫の声。
― 母親の鼻歌(サビを幾度も繰り返す)
彼女が症状を自覚したのは2年前。
日課の耳かきの最中に未知の手ごたえを感じ掘り出したところ、それは、お気に入りの風鈴の音であったという。以来、彼女は自分の左耳に“音”が溜まる事を自覚していったのだ。
― 彼女を呼ぶ友人の声。
― 大好きな洋楽の1フレーズ。
音は、耳かきの深度に比例して鮮明さを増してゆく。どうやらこれは、彼女自身の好みの強さに比例するらしい。
反してハツエくんの口数は減ってゆく。私自身も、新たな音について説明を聞く事を控えるようにしている。ほどなくして内耳を掘り進む時間、私の耳へ届くのはラジオカセットの駆動音のみとなっていた。
以前のように、途中で眠ってしまったのだろうか?耳かきが最深部に近づくにつれ、彼女はまどろみ始めるのだ。しまいには、自分の耳から如何なる音が飛び出そうとも寝息をたてていられるほどに、深く。
だが、今回は様子が違った。
むしろ寝転がる彼女の手足には、微かな緊張が見て取れた。半目ではあるが、その眼差しはきょろきょろと宙をさ迷っている。
長い時間自由に動けない事に、ストレスを感じているのだろうか?私が休憩を申し出ようとすると、この手が新たな音を探り当てた。私は、これで一区切り、とばかりに細心の注意を払いつつ、それ掘り出した。
『こんにちは』
私だ。
自分の耳で聞くとは印象が違うが、この世でもっともこの声に精通した者の確信だ。
『ハツエくん』
私だ。
低音を利かせているつもりが、意外と高い。この気恥ずかしさは筆舌に尽くしがたい類のものだ。
彼女の耳が熱を帯びている。
その時、耳かきは最深の音を探り当てていた。
外へ。少女の内耳から、外の世界へ。
『わたし 先生の耳かき したい』
それは彼女の声だった。
凛としているが、どこかしら舌の足りなさはまさしく。不意をつかれた私は耳かきを手にしたまま、しばし呆けていた。
ふと見下ろすと彼女は、朱に染まった両耳と頬をおさえ、肩越しに私を見上げている。努めて表情を殺し、いつもの軽妙な言葉もない。
ああ、してやられたのだな、私は。
まさかこんな事まで出来るとは。
私は薄いうなじをひと掻きすると、診察中の緊張を払うよう大きく息を吐き出し、告げた。
「じゃあ、お願いしようかな」
両頬を覆う手の平の間から彼女は、太陽のような笑顔を惜しげもなく零した。
了