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《小説》 幻想少女カルテ 第6話

 私は、この小さな町で診療所を経営する医師だ。

 場末の退屈な町ではあるが、生活にこれといった不便は無く、住人も皆穏やかで世話好きで、よそ者の私をすぐに受け入れてくれた。

 赴任して、はや数年。今ではこの町が第二の故郷とすら思える。ただ一つ、気になる事があるとすれば――

 私の診療所を訪れる患者たちは、皆どこか不思議なのだ。

第6話 アリス

 “迷路”と聞いて私が一番に想像するのは、イギリスののどかなカントリーハウスの一角に作られた、実に巨大なそれである。

 子供の頃のテレビ越しの体験に過ぎないのだが、大人の背よりも高い生垣を刈り込んで作られた緑の迷宮は、大変に幻想的であり幼い冒険心をくすぐられたものだ。

 実際、夢に見た覚えもある。だがそれもまた、記憶の彼方の幼少の話だ。ならば今、目前に広がるそれの正体は何であろうか?

 一分の枯葉も無い深緑の生垣。私の背を50cm近くも超えているそれらが、両肩に迫る程度の道を作り上げている。前にも後ろにも、ただひたすらに緑のカーヴ。

 見上げれば狭き空。異様な高さを感じさせるコバルトブルーのそこには、一片の雲すら見当たらない。

 夢か。

 だとすれば酷く明晰だ。服装こそ診察室で常用している白衣にスリッパらしいが、これは愛用たればこそだろうか。

 手の指を握りこめば、筋肉の震えをも感じる。だが、膝から下は妙に覚束無い。しゃがめないのは何故だろう。意識すれば前後できると言うのに、私は自分の足の場所すら思い出せずにいた。

 思い出せない。

 記憶の、その順列を見失っている。ああ、そもそも眠りとは、夢とは、そのようなものじゃないか。元来、夢に目的など無いのだから。(諸説あるはず)

「今日は、休診にするか」

 迷宮の真ん中で言葉に出来たのがそれである。だが、そう呟いて私は、ようやくここにへ至った“直前”に思い当たる。

 帰国子女だと言っていた。

 英国人の父譲りの肌。プラチナのケープを思わせる柔らかな髪は肩まで伸び。母譲りの柔和で小さな顔。母方の教育のたまものか、日本語も堪能で。はきはきと喋る小さな口の、くるくると良く動く深い青の瞳の。
15歳。私の胸ほどの背の。

「もう見つかった」

 記憶の回復に伴うよう、そのままの彼女が私の視界に佇んでいた。前方の緑のカーヴから、前かがみに半身だけを覗かせた少女は、青のスモックに白のエプロンという出で立ちだ。

 猫にもイタチにも似た笑顔は、巧妙な悪戯をやらかした子供のそれである。童話の中であれば可愛げもあるのだろうに、いざ目の当たりにするとそれは、まあ、可愛らしいのだが。

「アリスくん」

 実に相応しい名だ。
“ここでの衣装を見る限り”本人もまた自らを、かの童話と重ねているのだろうか。

 口にした途端、その姿はカーヴの向うへ消えた。さくさくと芝を踏む音が急速に生垣へ吸い込まれ、遠のいてゆく。

 追わなければ。
私は彼女に捕らわれたのだ。

ある春の日の診療の最中、アリスくんという患者の“症状”に。

 「決して大きくは無い町だけれど、先生のお噂は誠実そのものだったわ。人の口に戸は立てられない、というコトワザをご存知?どれだけ取り繕って隠しだてた所で人は、最後には本音を喋ってしまうものなの。それが他人事であればなおさらだわ。特に私みたいなきんきらした女の子に問われれば、世話きで白人慣れしていない日本人の扉は、まさに鳥居の如しなのだから。ええ、もちろん親しみの意味です」

 診療所を訪れてからと言うもの、彼女は喋り続けていた。

 こちらの合いの手を待つ事もあるが、気づけば互いの自己紹介すら彼女自身がこなしてしまっていたのだ。私に関する事は概おおむね町で知り得た噂であるらしいが、それを自ら語りつつも細やかに感想を付け加えてくるのだ。

 ともすれば、こまっしゃくれた独演にも見えそうだが、アリスくんのそれは軽妙なテンポとユーモアに溢れており、幻想的な容姿とのギャップも相まって、実に小気味よく感じられる。

 だが、検診時間の問題は如何ともしがたい為、私は全てのテンポを無視し、ユーモアも交えずに彼女の会話を断ち切るしかなかった。

 だが彼女は、不満を表す所か自分の長話を詫びると共に、間髪を入れず自己の症状を語り始めた。

「私の体には、とても奇妙な場所があるんです」

「兆しは、12の頃にはありました。でも15の誕生日のあとから、それはとてもハッキリして来たんです」

 真剣な眼差しと遠まわしな語り口は、すでにある種の世界観を持ち合わせていた。

 奇妙だ。実に。

 白人の血がここまで色濃い患者は、確かに珍しい。だが彼女からは、これまでの患者でも数人が持ち合わせていた“症状の改善”以外の意図が感じられたのだ。

 その瞳は深淵の青。空のように高く、ほの暗い蒼の。

前置きが半ばを過ぎた辺りから、じわりと潤み始めた“その瞳”こそが彼女の患部であると私は予想していた。(そう思うでしょう)だからこそ『あまり見入ってはいけない』との警戒心から、瞬きなどで意図的に視線を外す努力をしていた。

「ほら、見てください」

 思えばそれは、マジシャンが自分の不思議を引き立てるが為に観客の注意をそらす様な、彼女特有のミスディレクションであったのだろう。

 ―そうして私は、してやられたのだ。
会話の途中、視線の交差に差し挟まれた“それ”を直視してしまったのだ。

「私の■を見つめた人は、みんな」

「迷宮の夢を見るの」

 緑の迷宮は、果ても無く続いている。

彼女を追っていたつもりが私は、いつしか自らの足跡を踏みしめていた。

 肉体の疲労は感じない。ただ不安感だけが明確に広がって行くのだ。目に見える全ての像が…感知できる全ての情報のどこまでが幻なのか?

 私は自己の理性に関し、少なからず自信を持っていた。それが今、20に満たない少女によって打ち砕かれようとしている。この恐怖に打ち勝つには、彼女を追えば良いのか?捕らえれば?

 どうも、違う。

 ただ追っては駄目なのだ。だが、目で追うことこそが幻覚の原因だと考えた所で、ここでは目蓋を閉じる事すらも不可能であるらしい。手で視界を覆った所で結果は同じだった。(同じよ)

 ならば考えるべきは■である。

 それは私をこの場所へと誘った患部であるはずだ。またそれは『迷宮』に近しい何かであるはずだ。

「正解は、ゆうれいよ」

 一本道の背後で、彼女が囁いた。

 振り向けば、緑の生垣の上に腰掛けている。白いタイツに包まれた踵で、生垣の側面を交互に叩いていた。危険だ。それに壁を登るのは迷路のご法度だろう。行儀もよろしくない。(そんな妄想もするのね)老婆心はさておき、私は彼女に詰め寄らず、その場から疑問を投げかけた。

「君が、幽霊だって?」

「私はブリテンで死んだの。先生は私に憑りつかれて、幻を見せられているのよ。そして、助かる方法は…」

 イギリスことグレートブリテンは世界屈指のオカルト大国だ。暗闇に石を投げれば魔女か幽霊、または妖精に当たるのだと聞く。

幽霊。

 はたして石ころは当たるのだろうか?(魔法のルーンを刻んでおけば良いのだわ)

「なるほど」

 返答して見せると彼女は「あ」と口元を押さえた。なるほど■は場所であるが、この幻覚には、彼女自身の言葉も作用しているらしい。脳裏の独白のつもりが私は、いつの間にか言葉に変えているのかも知れない。(考えすぎよ)

「アリスくん。自己の思考を疑う術を持つ者、自己の思考を客観視出来る者はね」

 私は生垣の闇を見据え、手を伸ばした。(無意味な事よ)恐らく場所はどこでも良い筈だ。だが目に見えない場所ならなおさら、彼女に手が届く気がした。

「施された暗示を、逆に操る事も出来るんだ」

 捕まえるのでは無い。それは大人の義務として、医師の役目として。(お医者なんかに何にも出来ない)私は自身の行動に『自らの無骨な手を繊細な少女の手へと重ねるイメージ』を施した。そう、紳士が淑女に対し行うかのように―

 どうっ。

途端、迷宮の深みから水流を思わせる振動が響き渡る。(わ…)だがそれも、瞬く間に遠ざかる。

 彼女は―

 私に手を取られた彼女は、目前の生垣に半ば重なるよう存在していた。驚愕とも、呆れともとれる表情。その出で立ちには見覚えがある。診療所を訪れた際に着用していたベージュのワンピース。

 先ほどまでのエプロンとスモックでは無い。あれは私自身の“アリス”という名への固定観念と、彼女の言葉が作り出した幻であったのだろうか。

「君は、自分の症状をよく知っている。そして、それを利用して人を驚かせているんだね」

 見据えたその瞳は、なるほど迷宮の空と等しい彩りだ。彼女は私を見下ろしているのだろうか。

 するり。
彼女の手はすぐさま私の手をすり抜け消える。だが、生垣へ溶け込む寸前の表情には、憤りと焦りが伺えた。(焦ってなんて、いないわ)

 私は、初診であるにも関わらず、娘1人をここへ向かわせたご両親に対し少なからず疑問を抱いていた。

 なるほど、彼女と両親の間に感じた奇妙な距離感の正体はそれか。(見透かしたみたいに言わないで)申し訳ない。

「外に出る方法は簡単よ」

 4、5メートルほど正面の生垣に背を預けた彼女が、そのままの姿勢と距離とで私の耳元へ囁いた。

「“アリス、助けて下さい”と言うの」

「そして迷宮の床へ、キスをするの」

 瞬く間に私は、それらを選択から除外した。(なんでよ)

「脱出の条件は患部の特定、かな。(知らない)人体において迷路のような。(知らない)観念では無く、内側では無く、視認出来得る外側に刻まれた場所、ともなれば答えは限られるよね。(知らないったら)

 そう、ここは。

「ここは君の、てのひらの上だ」

「せいかい」

 迷宮の出口で、アリスくんの返答が私を迎えた。

 夕闇に溶け込んだ診療所の中央で、私は椅子に座っていた。正面には佇むアリスくん。私は彼女が差し出した右手から視線を外し、ゆっくりと彼女を仰ぎ見る。

 目が合うと彼女はびくりと肩を揺らし、ばつが悪そうに眉を潜めて視線を反らす。なるほど、この角度からして迷宮で見上げた青空は、やはり彼女の瞳を象徴していたのだろう。今は茜色を滲ませた、その蒼い双眸を。

「あの、手、そろそろ」

 微かに頬を赤らめた彼女にそう言われ、今更ながら私はその手を握り締めていた事に気がついた。すぐさまに謝罪し、離す。

 なるほど、あの迷宮で感じた振動や水流は、彼女の手を通して感じた血流であったのかも知れない。

「君の掌紋には見つめた人を催眠状態にする、特有のパターンがある様だね。そして君は、催眠状態となった相手の思考を言葉で誘導出来るらしい」

 私は椅子から立ち上がると、彼女を尻目に部屋の隅へ歩き電灯のスイッチを押した。灯された明かりの下、アリスくんはぺたりと椅子へ座り込む。

「自分の症状には、どうやって気づいたんだい?」

「掌の不思議な模様は小さな頃からあったわ。パパやママはよくルーン文字かも、なんて言ってた」

 当初の饒舌さは鳴りを潜めているが、通りの良い声そのものにかげりは無い。

 ルーンと言えばドイツ人の先祖が使っていたと言われる古代の文字だ。しばしば魔術と絡められるが、実際の用途は日常的なものであったとも聞く。

「でも、1年ほど前から今みたいに形が複雑になって。それをパパとママに見せたの。そしたら」

 説明のつかない現象に遭遇すると、多くの人は驚愕とともに恐怖を覚えるものである。だが現象の原因が自身の家族であれば、恐怖をも乗り越えられるはずだ、と。

 そう信じたい。

しかし彼女の口から語られた現実は、およそ理想的とは言い難いものであった。無論それは彼女の視点からのみ語られた現実である為、客観性を得るにはご両親の証言が欠かせないものとなるだろう。

「パパもママも外面が重要なお仕事だもの。とにかく口の固いお医者ばかりに診せられたわ。先生で5人目」

 自嘲めいた言葉を重ねた後、彼女は俯いたまま金色の髪を掻き揚げる。そのまま指の先で後れ毛を弄ぶと、聞き取れるか否かの境目で「ごめんなさい」と呟いた。

 その謝罪は恐らく、私にだけ向けたものでは無いのだろう。それは、これまで彼女を診察した全ての医師にも向けられたのだと、

 そう信じたい。

「…それで、迷宮は左手にもあるのかい?」

 は?という声を口と表情とで表し、アリスくんは私を仰ぎ見た。伝わらなかったのだろうか?ならば。

「掌紋による催眠効果は左手にも発生しうる可能性がある。もしかすると両足にも。まずは体表の迷宮全ての確認。そして催眠効果が発生しうる焦点の距離や光量の検証。そこまで済めば、実生活でどのような事への注意が必要なのか、おおむねの対策が立てられるだろう」

 ゆくゆくは掌紋を転写し、同様の現象が発生するかも検証したいものだ。

 私がカルテ上で万年筆の筆記音を奏でていると、何時しかそこへ少女の苦笑が混じりこんでいた。

 私のいぶかしげな視線に気づいたアリスくんは、とっさに両手で自らの口元を隠したが、当の苦笑は漏れ続けていた。

「先生、ほんと、うわさ通り」

 どのような噂だろう。醜聞であれば、それは師匠の責任としよう。彼女は私が問うより先に小首をかしげ、微笑みを投げかけてくる。

 水を湛え輝く深淵の青。さらりと鳴る豊かな金髪。その上これほどの笑顔だ。男性であれば漏れなく迷い込むだろう。

「でも女の子の迷宮を“ぜんぶみたい”なんて、びっくりするほど大胆」

 彼女の語弊を正すため私は「いや」と「その」とで立ち向かう。約束された玉砕を前に、彼女は更なる追撃を放った。

「簡単にゴールできるとか、思わないでね」

 差し出された左手。

 その向こうでアリスくんは微笑みを収め、真剣な眼差しで見上げていた。私は彼女の正面に椅子を整え座ると、厳かに彼女の手を取った。

 どう、と伝わる少女の血潮。

高まりゆく互いの体温を感じながら私は、改めてアリスくんという見果てぬ迷宮へと降り立つのだった。


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