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《小説》 幻想少女カルテ 第5話 

 私は、この小さな町で診療所を経営する医師だ。

 場末の退屈な町ではあるが、生活にこれといった不便は無く、住人も皆穏やかで世話好きで、よそ者の私をすぐに受け入れてくれた。

 赴任して、はや数年。今ではこの町が第二の故郷とすら思える。ただ一つ、気になる事があるとすれば――

 私の診療所を訪れる患者たちは、皆どこか不思議なのだ。

第5話 ケイ

 この町の春の歩みは遅く、来るときも去るときも実に慎まやかである。

 引っ越して来た当初こそ、長々と足元に纏わり着く寒気に辟易したものだが、今では草木が緩やかに芽吹く日々を趣深く感じられる。

 訪問診察の帰り、私は遅咲きの桜を見上げながら公園の並木道を歩いていた。柔らかな日差しの中、愛用の自転車を手で押しながら、ほころび始めた蕾を探す。

 ここへ来る前の私にとって桜というものは、同僚たちから宴会の誘いを受けた辺りでようやくその満開に気づく程度の、ありふれた自然現象に過ぎなかった。

 今昔の生活に優劣をつけるつもりは無いが、この町で体験した季節の移ろいは、私の生涯に鮮やかな彩りを残すだろう。

 などと、詩人気取りな感慨にふけっていた私の視界に、小柄な人影が過ぎった。

 少女だ。
背格好からして10代前後だろうか。
だが制服は、確か近隣の高校のものだ。

 それは。

それは並木道での、ごく有り触れたすれ違いに過ぎなかった。

 だが、気づけば私は俯いたその後姿を目で追っていた。容貌は伺えない。しかしその時、この心中に直感めいた洞察が生まれようとしていた。

 華奢な背中。
髪を左右に分け、それぞれ三つ編みに束ねている。古風な印象。だが違和感。違う、容貌の問題では無い。

 頭の動きだ。
波間をたゆたうよう、前後に揺らしながら。

 足運びだ。
ざり、ざり、靴底で地を這うよう、次第に並木道から外れて行く。さらに小高い植え込みの間を縫って、ついには私の視界から消え―

 並木の端に自転車を置いた。
元々新聞配達用であった愛車のスタンドは幅広で強固で、多少の悪路で立てても安定する。鍵をかける習慣は既に失った。のどかな町で身についた悪習であると言えよう。

 往診鞄を手に少女を追う。
植え込みは深く隙間は狭い。私の体格では枝葉を荒らさず通る事は至難だ。私は彼女の進行方向へ目星をつけると、先回りすべく公園の茂みへと踏み込んだ。一般の者が安易に立ち入るべきではないのだが、今は直感を信じて進む。

 いた。

 たった今、植え込みの隙間を潜り抜けた所だ。その足取りはほとんどど宙に浮いている。地面との距離をも見失っているのだ。

 私はその場に往診鞄を置くと、声をかけるより早く彼女の元へと駆け寄った。彼女は、今正につま先から倒れ伏そうとしていたのだ。

 大股に2歩、3歩と半。正面から彼女を抱きとめる。軽い。その両肩は、私の手の中に収まりそうだった。

「だれ…?」

 低く、か細く、しゃがれた声が問う。細面の顔。やや病的な白肌の中、焦点の覚束無い大きな瞳が虚空をさ迷っていた。

「貧血だね。支えてるからゆっくり座って」

 少女は私の指示に従い、私の胸に両掌を預けたまま芝の上に正座した。

「ゆっくり頭を下げて、できれば心臓より低く」

 それは貧血の基本的な対処法。だが。

「いや」

 低い声が否定する。
対処への不満だろうか?ともすればやはり、私への不審か。だが続く二の句で、事態は全く別の展開を見せるのだった。

「にげて」

 彼女の名前はケイくん。
小柄ではあるが、近隣の高校の二年生らしい。

 聞けば貧血はよくあるとの事だ。
しかし、とある理由で彼女は、貧血の自分を他人に見せたくなかったのだと言う。だからこそああして人目のつかない場所へ行き、しゃがみ込んで回復を待つつもりであったらしい。
 ただ今回はこれという予兆無しに症状が現れたため、そうとう焦っていたそうだ。

 貧血の際、まず気をつけるべきは「転倒」である。思えば彼女の足取りは、学生時代の友人が貧血で盛大に倒れる前に見せたれと酷似していた。その友人の額には、今でもかすかに傷跡が残っている。

「人目につかない場所を探してしゃがむのは、二重の意味で危険だよ」

 医師としての身分を明かした私は、目前の少女を出来る限り穏やかに諭した。

「でも」

 体型どおり、容貌には幼さが目立つ。大きな瞳は潤んで下がり気味ではあるが、どこか批難めいた角度で私を見上げていた。

「貧血の時、周りに人が居たら、私」

 なるほど。
“この”症状は彼女の貧血と密接に関係しているらしい。思案を巡らせるべく顎をさすろうと、

 出来ない。
左手首。その親指、中指を中心に、びっしりと巻きついているからだ。それは左手のみならず、私のシャツのボタン数個、右手の肘と手首にまで及んでいる。

 それは黒く、細く、しなやかで、大量の“髪”

その全てが彼女の頭部から生えた、正真正銘の髪なのである。

 私は数分前の事態を思い起こした。
三つ編みに束ねられていたそれが、突如解き放たれる。その様は、巨大で黒い手の平の展開を思わせた。

 だが無数の先端はそのまましなだれ落ちるどころか、それぞれが個別の意思を持つ蛇のように鎌首をもたげると、次の瞬間には倍以上も伸びながら私の各所へと張り付き、発条《バネ》のように収縮しだしたのだ。

 そして、現在。
私と彼女は、今や深い植え込みの影で向き合い、座り込んでいた。

 正座した彼女の両膝は、私の胡坐にやや乗りかかっている。私の上体は、彼女の髪に引かれるよう大きく前かがみだ。呼吸を怠れば、ケイくんの前髪を揺らさんばかりの距離である。

 正直な所、公衆の面前で無い事は幸いだった。頭髪に捕らわれた状況もさることながら、この体勢は物議を醸す所の話では無い。私自身が第三者たれば通報も辞さないだろうか。

 私が首を巡らせ人目を探していると、ふと眼下で彼女の深い溜息が聞こえた。

「…ごめんなさい、もう無理」

 見下ろせば、その手に小さなハサミが輝いている。手持ちのソーイングセットから取り出したものらしい。

「切ります、から」

 俯いた表情は伺えない。
色白な耳が紅潮している。全くもって申し訳無い。

 だが彼女の震えは、つぶさに髪を伝わった。長くしなやかに波打つ黒髪。やや乾いてはいるが綺麗に結い上げていたそれは、間違いなく彼女の。 

 私は動く範囲を駆使して、ハサミの刃先を指先で制した。

「ちゃんと解くよ」

 じわり、その上目遣いは訝しげであった。

「まかせて」

 ふわり、彼女息を飲み、改めて私を見上げた。

「去年の暮れに母が、亡くなりました。交通事故で」

 利き腕の人差し指の可動は幸いである。爪の伸びも状況に味方してくれた。お陰で左手に絡みついた髪は、3分程度で全て解放に至っている。髪は、多少のクセがついているものの、再び私へ這いよるようなそぶりは見せなかった。

 なお作業中の彼女は辛抱強く、多少強めに引いたところで声すら上げなかった。

「そのお葬式が、はじめて、です」

 語り口は酷く重い。
だがそれでも、彼女は自らの悔恨を言葉にしてくれた。

 症状が現れたのは出棺の半ばであったらしい。ケイくんの不調に気づいた母方の祖母は、彼女をともない座れる場所を探してくれた。

 だが、祖母が彼女の肩を抱いた直後、ケイくんの髪が弾けるように伸びると祖母の両袖に絡みついたのだという。

「しばらく、めちゃくちゃでした」

 恐怖に身をすくめたままの祖母。騒然とする式場。そしてそこで親戚の誰かが呟いたのだと言う。

“呪い”と。

 ボタンから髪を解いていた指が、自ずと止まった。恐らく私は、眉を吊り上げていた事だろう。親族の葬式の場で、いくら未知の事態に直面したとしても。恐怖を感じたとしても。

 言葉は、選ばれるべきだったのだ。

視線の隅に彼女の顔。それは覗き込むよう、私を見上げていた。

「やっぱり、そう、なのかな」

自嘲にも恐れにも見える顔で、消え入りそうな声を搾り出す。彼女は語り続けた。

 自宅で炊事中に立ちくらみをした。
今度は自分を支えてくれた父の肘を絡めた。

 電車で席を譲ってくれた女性のハンドバッグも。

そして、今日。

「やっぱり」

 私は彼女の呟きに、間髪を入れず切り替えした。

「体質だね。少し特殊な」

 と同時に、ボタンから一本の髪を解く。
私は彼女の表情の変化を待たず、続けた。

「君の髪だが、年齢の割りに艶や潤いが少ない。これは恐らく鉄分が不足しているんだ。そして鉄分の不足とは即ち、君の貧血の原因であると思われる」

 またも解く。
見上げる彼女の顔から自嘲が薄れつつあった。恐れの色は、今だ色濃いのだが。

「医者の言葉として聞いて欲しい。君は……
同年代でも生理が遅くは無かったかな?」

 戸惑いの顔に、どっと朱が指し込む。
口元は“わ”の形で今まさに浮き上がらんとしていた。

「恐らく、お母さんのご命日あたりだ」

 両の手で口元が隠された。首を引こうにも、その髪はいまだ私の胸元に絡み付いている。

「貧血の原因は、それである可能性が高い」

 解き続ける。
すでに私の指は、彼女のキューティクルの質を極めつつあった。

 少女にとって、男からこのような推理をされるのは忌むべき屈辱であるだろう。だが医師とは、性別もタブーをも超えて患者と、その症状と向き合う者なのだ。

「髪が動く原理については、体内で生み出される微弱な電気を帯びた事で性質が一時的に変化している可能性がある。その電気的変化もまた、貧血と強い因果関係にあると考えられるね」

 両の手の平が開く。覗いた口元が、小さく言葉を紡いだ。

「…これは、体質?」

 私は最後の一本をボタンから解き、答えた。

「もちろん」

 医師に断定はタブーだ。私め。
詩人気取りの青二才め。

 2人で並木道に戻った頃、太陽はすでに地平線へ没しつつあった。

 自転車を押す私の傍らにはケイくん。またも俯き加減ではあるが、その足取りに目立った乱れは無い。

 彼女の髪は現在、根元と先端をそれぞれ三重の髪ゴムで纏められたポニーテールとなって、彼女の歩調に合わせその背中で左右に揺れていた。

 とりあえず先端が自由にならないよう、応急的な処置だ。『いっそ切ってしまえば』という言葉をに口出すことは無いだろう。

 きっとその髪は、亡き母親との思い出であるのだろうから。もっとも悩んだのは彼女であろうから。

 私は並木道の出口までに、ケイくんに対し診察の場合に必要な身分証や、保護者への相談について、可能な限り簡潔に説明した。

 それが今出来うる全てだった。
結局のところ彼女自身が診察を望まなければ、この縁もここまでなのだから。

 別れ際、私は改めて貧血時の対処に関し彼女に注意を促すと、自転車に跨ろうとした。だが。

 直後に袖を引かれた事で、動きが止まる。

 ぎくりと顎を揺らす。この感覚はまさか、またも、髪の?だが見下ろした袖に絡み付いていたのは、繊細な白い指先であった。構造や素材こそ私と等しい筈なのに、それは高価な飴細工を思わせる。

 指の持ち主は、言葉を探すよう目線をさ迷わせていた。

「せ」

の声を一つ絞り出した頃、その白い顔は夕日より確かな赤に染まっていた。恥じらいと、戸惑いと、ぎこちない笑みとが瞬く間に交じり合う。その様は蕾の綻びにも似ていた。

 やがて彼女は、花開くように告げる。

「先生、ありがとう、ございました」

 それは、無二の報酬に思えた。

 後に彼女は語る。
この髪は今まで、引っ込み思案な自分に代わり、恩人の袖を引いてくれていたのだと。

 そう。
それはきっと今一度彼らを振り向かせ、ただ一言、ありふれた謝礼を伝えるが為に。


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