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あの夏の日とマシンガン打線への追憶【ベイスターズが好きだと叫びたい①】
わたくし,横浜DeNAベイスターズのファンを長らくやっております。
日本海沿岸の片田舎に生を受けた私は、幼少期,周囲がそうであったように当然のこと読売ジャイアンツのファンでした。
そうあることを疑いもせずに成長し、「ホーム三塁側からジャイアンツに声援を送る」などという愚かな行為も働き、両親に大層迷惑を掛けるようなクソガキでした。
私はその日もこれまで同様、ジャイアンツを応援すべく地上波放送されていたナイターを観戦しておりました。
1998年7月15日,横浜スタジアムでの横浜-巨人戦。
正に私にとって運命の試合。
思い出すのは開け放たれた縁側の窓と蚊取り線香の匂い。
風にそよぐ風鈴の音。
電灯に纏わりつくように飛び回る1匹の蛾。
椎茸の出汁が強めの麵つゆと素麵の味。
今にして思えば、それが私にとっての『夏の原風景』なのかもしれない、そんな試合。
横浜の先発は後にロサンゼルス・ドジャースでクローザーを務めた斎藤隆。
片や巨人の先発は現2軍監督,かつて斎藤雅樹・槙原寛巳と「三本柱」を形成した桑田真澄。
序盤,仁志敏久・清水隆行・松井秀喜・清原和博・高橋由伸・広沢克己という今見てもおっかない打線(6番に広沢てお前ほんま…)を擁する巨人が『花火師』斎藤隆に襲い掛かり,3回7得点とKO。
(……この人がメジャーで150km/hオーバーのストレートを連発する様を見て、全横浜ファンは思った。俺も思った「日本時代からやれや」と。)
当時の私も「桑田が投げてて7点リードか。勝ったなガハハ」と余裕だった訳だが,その後、横浜打線が桑田をKO。
両チームが4回終了時点で6-7,7回終了時点で9-9という地獄のような乱打戦を展開。
8回表,高橋由伸の3ランHRで9-12。本当に由伸はいい選手だった。
横浜、万事休す。
……ここで終わってくれていれば、贔屓球団言う度に「なんでお前横浜応援してんの?」と不思議がられることもなかっただろう。
余計なお世話である。
8回裏,クローザー槙原登板。
この年、ジャイアンツのリリーフは「誰を出しても打たれそう」な有様で(これについては横浜も佐々木主浩・島田直也・五十嵐英樹以外は全く信用できなかったが)、クローザー候補がバタバタ倒れていく中しゃーなしでクローザーをやらされていたかつての完全試合投手をファンは祈る思いで見ていたのである。
バッターは『ハマのメカゴジラ』佐伯貴弘。当時は元近鉄戦士・中根仁とニコイチ起用されていたが、この日はスタメンだった。
(この後、マシンガン打線が解体され豆鉄砲と化した暗黒期。優勝メンバーが1人また1人とチームを去る中、中軸として奮闘してくれた佐伯には感謝しかない。)
結果はライトフライ。横浜ファンからは溜息が漏れ、巨人ファンは歓喜するのだが、この結果がなんと槙原の「ボーク」により覆る。
百戦錬磨の槙原も人間。
気落ちもしただろうし、審判や、そも自身の所作への怒りもあったろう。
しかし、その隙を佐伯は見逃さなかった。
話は変わるが、かつて満州で帝国陸軍の士官として戦い、教師として戦後を生きたウチの爺様は、野球中継を観ながら娘(私の母)にこう言ったのだという。
「投手と打者の勝負は侍の斬り合いと同じ」
そう、直後、槙原は斬って捨てられたのだ。
佐伯は3ランHRを放ち、スコアは12-12。ライトスタンドはお祭り騒ぎ、レフトスタンドは当然お通夜である。
9回表、『ヒゲ魔人』五十嵐がなんとか巨人打線を封じ、9回裏。なんと槙原は続投。まぁ誰投げさせても怖いなら槙原そのまま投入しとけという長嶋監督の意図はわかる。というかここで三澤やら岡田やらを投入されてもファンも困る。
その選択が仇となったのはまた別な話だ。
結果、『突貫小僧』波留敏夫が逆転サヨナラタイムリーを放ち,13-12と試合を締め括った。
まさに「マシンガン打線」の面目躍如。
かの『number』も特集した令和の世にも語り継がれる『伝説の馬鹿試合』である。
その日の匂いさえ思い出せるほど、強烈なあの夏の原風景。
マシンガン打線に脳を完全に破壊された少年は、この日を境に横浜ベイスターズの虜となったのである。
この1998年の優勝を境に、横浜が再び底無しの暗黒に沈むとも知らずに…
つづく