「置かれた場所では咲けない」こともある@テキサスエクアドルソルボンヌ の話
「そんなこと、調べればすぐわかることなのに、なぜ調べないのかしら」
先日友と飲んでいたときの言葉を、あれからずっと考えている。
インターネット黎明期を過ごした私の世代にとって、GGK(ググレカス)と言う表現は身近だった。
あれから世界はスマホとSNSに凌駕されて、今の若者はグーグルなどの検索エンジンではもう、検索しないのだという話が流布したこともあった。
私もそうだと思っていたら、そこからまたちょっと時代が進んで、
SNSで目にした気になる事象を
検索エンジンで調べて
またSNSに戻る
というパターンになりつつあり、だからZ世代の検索エンジン利用率は上昇しているらしい。加えていえば、検索はエンジンだけでなく、SNS内でも頻繁に行われる。GGK世代は「いまどきの子は」と言いたがるけれど、「調べる=検索エンジン」という世代のほうが、見えないことがあるような気にもなる。
という前置きはさておいて、唐突けれどタイトルにある言葉の原典
置かれた場所で咲きなさい
なんですが。
著者はリスペクトしてるし、著者がこの言葉を言った背景を知れば、なんと奥深い人生なのだろうと思う。ただ、これは膨大な原書のたった一行を出版社がタイトルに選んでしまっただけの話で、この本が「置かれた場所で咲け」という内容を書いたものじゃないことは、読んでみりゃわかる。
だから、この一言だけが間違った場所で引用されることに、なんだかやるせなさを感じるのだと思う。
荒地の何もないところで芽を出して、いつ降るかわからない雨を待っているだけの時間を過ごしている種は、移動の仕方を知らないし、1人の力で土を掘り返して別の場所に持っていくことなんて、できるわけないじゃんよ、と単純に思うわけで。
そこには、別の力が必ず必要だ。
その力を得るためには「移動したい」と表現し続ける必要があって、「そこにいろ」「ここでいいんです」と言ってしまったらオシマイダー、などと私は思うんじゃった。
そして、移動したいと表現していくプロセスにはやはり
「調べる」
行為が必要なのだけれど、この「調べる」ことがうまくできない人たちがいることも確かで
でも、できたとして、果たして調べれば解決することなんじゃろか?
今日の話は、そういうことが私にも起きたことがあるよー、という話です(やっとかい)。
子供の手が離れ出した頃、学生時代のリベンジで猛烈に留学をしたくて、都内のフランス語教室に通い出して、そこで斡旋していた個人留学で1週間だけフランスに行ったことがある。
当時の私にはそれが精一杯だった。
そこから火がついて、たくさんのことを調べた。
検索エンジンで「フランス 語学留学 短期」なんていうワードで調べまくった。それで、たいていのことは知った気になっていたんだけど
諸事情あってなぜか英語を学ぶためにアメリカのテキサス大学に4ヶ月ほど通っていたときに、エクアドルから来ていたクラスメートがポロリとこんなことを言ったんじゃった。
「去年まで僕はパリのソルボンヌでフランス語を学んでいたんだよ」
ドゥエッー???
すげー。まぢすげー。
ソルボンヌにいたの? わー、どうやって入れたの? 憧れだなあ、いいなあ、パリのソルボンヌ。パリ大学。
私がギャーギャー騒いでいたら、不思議そうな顔で彼はこう言うんだった。
”いづみ、あそこは誰でも入れるよ。君だって行けるよ”
んなわけない、パリ大学だ。入試は? フランス語でしょ?
”ソルボンヌが外国人のために開設しているコースは、試験も何もなくて誰でも入れる。一番短いのは夏季コースで1ヶ月半ぐらい。君も行きなよ”
うそ。
というわけで、さっそく「ソルボンヌ 夏季講座」で検索したら、原語の
Cours de Civilisation Française de la Sorbonne
がヒットした。
必死こいてフランス語を勉強していたので、ウエブサイトから申請を出して、その翌年に通った。個人留学をしていた時に知り合った子が夏の間アパートを格安で貸してくれた。パリ、一人暮らし。至福の時間じゃった。
(ちなみに、ソルボンヌという大学はなくて正式にはパリ大学。ソルボンヌのフランス文化講座は、パリ大学の一部ではなくソルボンヌ財団がフランス語を学ぶ海外の人のために開いている講座でござる。ま、でも響きはよい。そるぼんぬ>笑)。
とても不思議なのは、私が必死こいて検索しまくっていた時に、この講座がまったくひっかかってこなかったことだった。
きっとどこかにあったのだろうけれど、私の身の回りで話が出たことがなく、斡旋サイトでも見逃していて、たぶん、エクアドルの彼の一言がなければ、今もその存在を知らなかったかもしれないなあ、と思う。
私は検索は得意なほうだけれど、おそらく、何らかの気持ちのバイアスがそこを遠ざけていたのかもしれない。
ソルボンヌに通うなんて無理に決まってるじゃん! というような>笑
さらにその情報をくれたのが、フランスでもパリでも日本のフランス語学校でもなく、アメリカのテキサス大学にいたエクアドル人の彼だった、というのもまた、めちゃおもろなのだった。
ソルボンヌの講座では世界各国から生徒が集まっていて、日本人の子もいた。よく聞くと、留学の斡旋業者に依頼して来ているという。
価格を聞いてオドロイタ。直接大学のサイトから申請して私が払っている額の、倍以上の費用をご両親が負担していて、斡旋された寮も高額だった。
「両親に感謝しかない」と彼女は言っていたけれど、私はそのご両親が払っている額の、数分の1程度の費用で同じことをしていて、なんか、いろんなことを考えてしまったんじゃった。
置かれた場所で咲かなくてよいのだけれど
どこに行けばよいか知るには情報がいる
でも自分が生きている世界の中だけでは、いくら調べても入ってこない情報があって
そこに、誰かの一言、誰かの助言があることで一気に見えてくる世界がある
でも、その世界に行くためにはお金や人脈や交渉の能力なんかが必要で
それを自分が持っているか、親が持っているか、自分のいる環境の中にあるか、といった差は歴然とあるわけで
ただ単に、「置かれた場所で咲かなくてよいのだから、どこかに行ってよいのだよ」と言われても、こうしたプロセスの中で止まってしまうことは多いのだろうなあ、などと思いつつ
まあ、でも今の世代にとって、SNSがそうした役割を果たしているのであれば、それ悪いことじゃないよねー! って純粋に思う。
そして私自身は、もっと身近な場所で、「どこかに行っていいいよ、行けるよ」と手助けをできる側で、人生の残りの時間、何かできたらいいなあなんてことも考えている。
「そんなこと、調べればすぐわかることなのに、なぜ調べないのかしら」
うん。
でも検索が得意な自分が調べても調べても知らなかったことは歴然とあって
(いや、今でもたくさんある。調べればわかると思うことも、自分はすでに知っていると思ってしまうことにも、懐疑的でいる必要がある)
それを一歩前に進ませてくれたのは
テキサスエクアドルソルボンヌ
であったなあ、という思い出話でありました。
天気がよいので、買い物に行きます!
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