父のこと

見送りエントリばかりな気がしますが、父を見送って半年以上たったので
忘れないようにするためにも記録を。


父との子供時代のこと

思い返すと物心ついたころからは結構父と行動していた気がする。
仕事は東京以外にも新潟の方にもよくいくことがあったので
自分も車の助手席に座りついていく、ということは小学生時代に
よくあった。
いつも漫画を読みながら目的地まで行き、
着いたら仕事が終わるまではホテルか事務所で留守番。
必ずプラモデルを買ってもらって組み立てて遊んで過ごしていた。
職場の人からは、一人で偉いね、みたいなことをよくいってもらった記憶があるけど、この頃から一人で遊ぶのは好きだった気する。
父が戻ってきたらホテルの大浴場に行って、誰もいない湯船でゆらゆら
しているのが好きだった。

飛行機嫌いのため遠出の旅行はしたがらなかったが、
中学受験が終わった後に九州出張で旅行がてら行ったのが初飛行機だった。
鹿児島の指宿で砂風呂に蒸され、イッシーを探し、熊本からフェリーで
長崎に行き、子供だったので木刀をその場で買って飛行場で困惑される、
といった旅行を2人で行った。よく覚えている。
色んなところで大層もてなされた、烏賊が新鮮なまま活け造りになってて
動いている様子が強烈だったり、雲仙に行ったときはタクシーの運ちゃんが
色々連れて行ってくれた。
中学に入ってからは、毎朝駅まで車で送る生活を高校入るまで続けていた。
徒歩でも15分位でいけるのだが、毎回遅刻ギリギリになる自分は
送ってもらわないとダメな生活を繰り返していた、改めて思うと凄い。

父の仕事はいつも遅くに帰ってくる、という記憶であり
小学校の頃も寝る直前まで帰ってこない、飲んで帰ってくる、
という記憶ばかりである。
そんな生活なのに必ず朝はしっかり起きて子供を車で送る、というのは
自分でも凄いだろ、といっていたが本当に凄いと思う。

中学、高校以降は一緒にどこかにいくということはなくなったが
それでも家族を外食に連れて行くのは好きだったので誰かの誕生日や
正月などは必ずどこかで一緒に過ごす生活をしていた。

父の趣味

兄弟でも同じ意見だが、父は仕事が趣味であり、家族が趣味であったと思う。引退してからもなんだかんだで声がかかって仕事を続けていたが
仕事を続けていた方が本人のためだろうし、父もなんだかんだ
仕事をしているのが楽しい人ではあったと思う。

父は仕事のことを全く家庭内に持ち込んで話すことはほぼなかったので
どんな仕事をしているのか全く不明であったが、
亡くなった後に父の仕事仲間から聞いたことは
「いつも周りに気を遣っていた」
「ほとんど父がまわしていたが、決して前に出ることはなく、支えている」
「本当に色々な人がお世話になったし、何かあった後も面倒見ていた」
など、自分のイメージとは違う父の像が聞かされ少し驚いた。
家では母とよく喧嘩をするし、自己主張が強いので、まわりをサポートする
姿があまり想像できなかった。
が、今思えばお中元など色々な方面から来ていたので確かにそういうところはあったのだろう、と少し納得する。

そんな父は飲みの場では息子の自慢をする、というのは聞いていたので
色んな人から答え合わせのエピソードを聞いた。
自分が大学合格したときの話は誰からも言われる(本命ではない大学の)
趣味は家族だったのだよなぁ、と改めて思う。

父の健康・病状

そんな父は全くと言っていいほどこれまで病気になったことがない。
お腹を壊す、風邪をひくなどもまったくない。
賞味期限をいくら過ぎた食べ物、飲み物をのんでもピンピンしており
これはもう、そういう体質の人はいるのだな、と思う位であった。
が、そんな父も3年ほど前に珍しく毎年の診断で「肝臓がん」になった、と
話があった。
ただ、その時もこんな父なのでまあ大丈夫だろう、という根拠のない
イメージがあったし、本人もまあ大したことはない、という雰囲気であった。
とはいえステージⅢなので、進行は結構しているのでまずいのでは、
という覚悟もあった。

本人はあまり医者が好きではないので治療を開始するのが遅くなっているようだったので、早く病院行って治療方針を固めてこい、という話をよくした記憶がある。
本人も初めはしぶしぶだったが、思ったよりも波長が合ったのか、しっかり治療をすることを決めたようにこの時期は聞いていた。
手術はできないので、化学療法になる、ということで
手術ができないくらいまずい状況かと思ったが、本人もそこまで深刻では
なさそうなので、このあたりは任せることにしていた。

しばらく化学療法で通院、入院を繰り返していて、予定していた治療が
終わったようで「大分数字が良くなった」と聞いていたので
結構安心していたのが昨年だったと思う。
治療のためあれだけ好きだった酒もやめてノンアルに切り替え、
ノンアルだが日々飲み歩く生活は変わらず過ごしていたのもあり
これまでと体調は変わらないように見えていた。
実際、自分の子供が産まれた後もイベント事だけでなく
日常の買い物で出かける時は車をだすといったこともしていたし、
子供を抱っこするのは自分の仕事だといってよく連れてくるように言われていた。
痩せてきてはいたが、そこまで体調が悪いようには見えていなかった。
が、これまで家族で記念日に行く食事には「俺はあんま食べないからいいよ」といってこなくはなってきていた。

今年の1月にこれまで同様に病院に通い始めていたが特にいつも通り、
という感じであったため日常に全く変化がなかった。
2月になって腹水がたまって最近はご飯を食べるのがきついから
ヨーグルトだけにしている、ということを言っていたが
元々偏食気味な父であったのであまり気にしていなかった。
さすがに腹水がきつくなってきた、というので病院にいって相談したらどうか、と言っていたら、入院して対処することになったよ、
というので対応策ができてよかった、と思ったのを覚えている。

明日から入院だから、ということでいつも通り一人で病院にいって
2週間後には帰ってくる、みたいなことを聞いており、
退院したら少しは良くなって帰ってくるかな、と思っていた。
実際入院当日も2週間後に孫のお祝い旅行を企画しているようで
その手続きをやっておいてくれ、とLINEがきていた。

そして退院の直前になって、母が医者から呼ばれているらしくいったところ
大分悪い状態で、いつ何が起きてもおかしくないのでそのつもりで、というようなことを聞かされたらしい。そしてその話を自分もまた聞きとなった。
入院して対処したはずなのになぜ?と思ったが元々もう大分悪い状態であり
腹水もぬいたけどこれ以上の対処はできない、とのこと。
そんな状態なのに退院するの??
みたいなことを思って母とも話を色々しました。
腹水が対応できないならCART法もあるのでは?そこはやらないの?
など、話を聞くと別の専門病院があるからもしやりたいなら
そこに行くとよい、というような話を受けている、など。

え、その話いまするの?みたいなことを色々家族で話したのが退院直前。
病院からすると対処のしようがないし、本人は退院を強く希望している、
特に孫と旅行をする、と言っているのならそこにいってあげて思い出を
作った方が本人のためだから、と言われていたのを覚えている。
いやいや、そんな状態で退院して、何かあったらどうするのか?
と何度も病院に話をしたが、退院は決まっていることなので変えられない、とのこと。

仕方ないので退院はしてもらうけど改めて入院の段取りを考えよう、とその時は判断した。
退院直前に父にも「何かやることあるか?」とLINEをしたら
「(孫の)旅行の手続きなのむね」(原文)とのことで旅行に行く気のようだった。
「それは終わってるのでモノとか何かないか」と聞くと
「今日はいいよ、水3本下の売店ヨーグルト2個りんご2個くらいかな」と
食べるモノとかは意識していたようだった。

退院前日も「明日退院だけどできるのか?転院手続きはしなくてよいのか」と聞いても「明日10時に退院です。お母さんの荷物持ってあげて」と
本人は退院する気満々。
「セカンドオピニオンとか、病院の方針も確認しておきたいのだが」といっても「退院してから」とのことだったのでこちらも
「いや退院しちゃったらしばらく対応できないんじゃない?」
など色々聞いたのだけど
「お母さん勘違いしている、通院か入院かになる」とのことでしぶしぶ退院を了解した。

退院当日

退院当日は自分が車を借りて迎えに行って「退院できるん?」と聞いたら
病室で寝ている自撮りが返ってきて「10時半でいいよ」と返事があった。
時間になって迎えに行くと大分フラフラになった父が出てきて、
車いすを借りないとまずそう、ということで急いで車いすを借りた。
つい2週間前までは孫を抱いて車を運転していた父が、
歩くのもできないくらい弱っているのはとても強い衝撃だったのを覚えている。
退院手続きをしている間に看護師さんに
「こんな状態で退院できるのですか?」
と聞いたところ
「自分でもトイレに歩けるし、本人も旅行に行きたがっているので」
といわれたのだが
「元々元気に運動もできていたのが、大分弱っているように見えるのですが。。」
と伝えたら、看護師さんとしてはそういう風に見えてなかったようだった。
寝たきり患者さんの中では元気な方、という見方だったようで
入院前の話をしたところ、結構驚いていたようだった。

とはいえ本人は自宅に戻りたい、もう病院はいやんなっちゃうよ、
ということなので車止めまで車を寄せて、肩につかまらせて歩かせ
なんとか車に乗せて自宅まで移動。

車の中では
「まわりは寝たきりの人達ばかりで気がめいってしまいそうだ」
「やっぱり自宅がいいよ」
ということと、これはここ1,2年で毎回言っているのだが
「俺はもう人生十分やることやったから、いつ死んでもいいんだよ」
「もうボーナスゲームだから、このままぽっくり行っても全然問題ない」
と口癖のように聞いているこのセリフを、また車の中でも言っていた。
「俺はもう人生十分楽しんだから、いつ死んでもいいんだ」
いやいや、もっと長生きしてくれないと困るしもうちょっと頑張ってくれよ、といつもの返しをしながら帰っていったのを覚えている。
車から降ろした時も、いややっぱり自宅が一番いいな、といって降りて行った。ただ、一人であることはできず、エレベータにたどり着く前にマンション前のベンチに一度座ってやすんでから、改めて肩をかして家のベッドまで
ゆっくり連れて行った。

こんな状況だったのでこのままだと家の中でも生活できない、
何せこれまではバリアフリーでない部屋構成だったので、
手すりとかどうしよう、杖はどうしよう、このままだと介助もままならないからベッドとかも変えないと、レンタルはないのか?とか
色々急ぎ検索してたりした。
そして何より食事がとれないので、栄養補給をどうするのか?というところでメイバランスなど補助につかえそうなのでそれをいくつか買い込んで備えておいた。
孫を見せたほうが元気になるかな、と思ったが遅い時間になったのもあり
まあ明日でよいか、と思ってその日は一旦良いかと思った。

そして23時過ぎだったか、母から急な電話が入り出てみると
「倒れた、息していない!」
「救急車呼んだ」
と切迫した様子で電話があった。
あったのだが、自分と話している30秒くらいの中で意識は取り戻したようで
本人は「何を大げさな」「救急車なんてよばなくてよい」
「サイレンなんて近所迷惑だろ」みたいなことをいっているようだった。

のだが、流石にまずいと思ったので自分も急いでかけつけた。
自分が駆け付けた時も「救急車なんかいらない」と言っていたので
強い口調で
「ダメに決まってるだろ」
「今倒れちゃったんだから、一旦病院に行ってみてもらわないと絶対ダメ」
と強く言ったのを覚えている。
そのあとは救急車が到着したこともあり、隊員の方の質問に
しっかり答えていた。

意識が戻ったのもあるのでそこまで重態ではないと思ったが
さすがに何かあるとまずいと思ったので病院にいってもらおう、
というのがこの時の自分の考えだった。

荷物をもって病院に緊急でついたのはよいが、
意識があるのもあって対応は大分時間がかかったのを覚えている。
1時間位待って、当直の方が来て、一旦バイタルや点滴などを
つけて様子をみた形だったろうか。
腹水もあって呼吸は病院に入った時から苦しそうではあったが
今すぐ何か悪くなる、という様子ではない。
ただ結構つらそうだから、早く何かしら対処できないのだろうか、
という気持ちで緊急用のベッドで待っていた。
その間、おそらく倒れた際にぬらしてしまっただろう下着を
母と二人で交換。本人大丈夫だ、といっていたが
母が、絶対気持ち悪いからと強く言っていたのもあり
着替えさせたのだが、よかったと思う。
本人もあまり介助してもらいたくなかったのだと思うけど
結果ずっと対応してもらえない可能性もあったのでこのあたりは流石だと思った。

2時間ほど待ったあと、改めて医師の方が来て
「本日退院されたばかりだし、病院としては何もできることはない」
「なのでこのまま帰った方が良いのではないか」
「既に何があってもおかしくない状況」
ということを言われたので(この場でそれを言うのか、と思ったけど)
「そう聞いているが、そういわれて退院して卒倒している」
「このまま返されても、自宅では介助の設備も対応もできない」
「入院したほうがよいのでは」と話をしたところ
医師の方は「ご本人の意思はどうですかね?」と聞いた。
そこで父からも
「こんな状況なら、入院したほうが良い」
「このままだとどうしようもない」ということを伝えたため
入院が決定することになった。
また入院手続きがすすむまで1時間以上かかって待つことになったが
ひとまず入院できるということでほっとした。
待っている間肩が凝るらしくしきりに腕を動かそうをしていたので
自分も待っている間に肩をマッサージした。
手足も冷たくなっていたので母とマッサージをして温めた。
結果的に、この時マッサージしてあげてよかったと思う。
本人ももっとこのあたり、など指示があり楽になったようだった。
入院を待つ間、兄にも連絡をしていた。
兄からは「まずいようなら今から病院に行く」と言われたが
コロナ禍もあってきたところであうのは難しいだろうから
「一旦小康状態になったから大丈夫」
「また明日以降面会にくるとよいよ」という話をしておいた。

そのままベッドが手配できたということで、その日に迎えに行ったフロアまで行き、看護師さんに荷物などを預けて父も見送った。
これが結果的に最後のタイミングになった。
病室に移動する前に子供の写真も見せて、連れてくるつもりだったのだけど、と話したけど「また今度だ」と言われた気がする。

この日は明け方帰宅することになり、自分も家に帰って入院手続きなどに備えることになった。
次の日は面会時間は10時過ぎになるのでそれにあわせて準備するか、と思って8時ころ準備していたよう覚えている。
兄からも電話があり、昨日はどうだったか、どういう状況かを話したのち
「今後のことも考えておかないとな、こういう状況なら何があるかわからないし」「何かあった時、お葬式どうするのか、とか連絡どうするのかとか、ある程度備えておかないとな」というようなことも含めて話していた。
その後、準備するかとしていた中母から緊急の電話があり
「もう緊急だから早く来て、病院から連絡があった」となり、
急ぎ出てタクシーを待っている10分位のあとに
「もうなくなった」と連絡が立て続けに入った。
母は一足早く病院に向かっていて、朝の巡回では問題がなかったことを
看護師から連絡受けていたようだったのだが、2回目の巡回で容体が変わったことに気づいたとのことだった。

この時は、「え、こんな早く」という気持ちと
「ああ、でもダメだったか」という気持ちの半々で自分は落ち着いて聞いていたと思う。
大分つらそうな父の姿を前日に見ていたのもあって、
そんなにきつくなく亡くなったのならまだよかったのかも、とか
色々考えていました。
タクシーで病院について、病室に通されてみたのは
昨日とは違ってゆっくり寝ているような父だったので
まあ、本人いつも俺はいつ死んでもいいんだ、と言ってたし
迷惑かけないようにさっと逝ってしまったのか、と
妙に納得した。

一方で兄は大丈夫だったのでは、というところから急になくなった、
という報告なので大分混乱した様子ではあった。
特に甥達は、自分の2週間前と同じ感覚だったので
あんなに元気だったのに、なんで?という感じだったのだろう。
長男、次男は大きいし、大分かわいがられていたので
自分以上にショックなようだった。
そして兄も同様である。実は3週間前に、その旅行を巡って
父と大喧嘩をしていて、喧嘩別れをしていたのもあり、
正直そこからあっていないままの別れになってしまった。

とはいえ、父と兄の喧嘩はよくあるし、二人ともよく似た性格なので喧嘩をよくしていることもあって、最後までそんな関係だったなぁとは思う。

この後は葬式に向けて当日から動かねばいけないということを
改めて痛感することになった、朝話していたことが今すぐにやらねば
ならない、決断もすぐに求められるので、こういうお葬式をどうするか、
なんかはあらかじめ決めておくことの大切さを本当に
実感した。
このあたりはまた別に記しておこう。

医師の方から聞いた病状

なお、この後亡くなったことについて病院側の対応について実は数日前から聞きたくても聞けないまま亡くなってしまったこともあり、
改めて主治医に話をききたい、ということをお伝えして場を作ってもらった。
こちらからすると急に弱ってなくなってしまったように見えたのもあり。
この件は非常に丁寧に対応頂けた、医師の方は忙しい中しっかり時間をつくって話す機会をいただけました、本当に感謝です。
(カンファぽいのがあったようで看護師の方が呼びに来たが強い口調で追い 返されてました)
改めて、昨年の治療をもって癌の治療としては手がなくなってしまったこと、今年の1月で治療については何もできなくなるのでどうするかの話があったこと、直前の入院も腹水の対応で入ったがCARTも数字が悪く対応できず、対症療法としてしかできなかったこと、本人は旅行には絶対に行きたい、との希望があったのでそこにあわせて退院できるように全力を尽くしていたことを聞きました。
特に孫との旅行は本当にいくつもりだったようだし、医者としてもいけるくらいの数字にはもっていったようでした。が、まさかこんなに早く容体が悪化するとは思わなかった、とのことでした。
ここでは色々と質問をして、たくさんの説明をいただきました。
元々本人があまり家族に心配をかけさせたくない人ではあったので、隠していたのだろうなぁ、と思います。隠されるといざというときに対応できないのでもうちょっと早く言えよ、と思いますが、振り返ると退院した後で、
介助がないと動けない自分を改めてみて、あんまり迷惑かけないように早めにいってしまったようにも思えます。
ちなみに前日の緊急入院の時に、医師の方から
「万が一の時は延命治療しますか?」とか聞いたときも(ここでいうの?と思ったけど)
「いらない、いらない」と話すのはきつくてジェスチャーでやっていたので
その辺はそうなのかな、とも思いました。

ともあれ、全く周りにいっていないのもあって伯父、叔母など
衝撃が走っていました。なんで??とめっちゃ聞かれた。

2年以上前からずっと「俺はいつ死んでもいいんだ、十分人生楽しんだ」
と何度も聞かされていたのもあって、そうか、本人もそういってたしな、
と思えるのもあり、こういう言葉を伝えているのはこの後の家族の助けにもなるのだな、とも思います。

あの時の判断

実際、自分は今でもですが
「あの時救急車を呼んで本当によかったのだろうか?」
「本人は病院に行きたくなかったし、自宅にいたかったのでは」
「病院に連れてったことで覚悟してしまったのかも」
など色々思ったりはしました。

が、結局救急車を呼ばなかったとしても
容体が悪くなった時に何もできずに手が間に合わず、という
こともあるかも、と思うと、そうしてよかったのかも、位は思えます。
本人も自分の意志で入院する、といっていたのもあり。

おそらく倒れたのは低血糖だったのでは、と思います。
栄養とれてなかったですしね。この辺ももうちょっとやりようが
あったと思いますが、本人何食べても、たべなくてもピンピンしている
人だったのでそういうのもあり。

あの時のことを忘れないように記録しておきたいな、と思って
覚えている範囲でつらつらと記しておきました。


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