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続・うちの家の先祖について

 以前、「うちの家の先祖について」という記事を書きましたが、今回はさらに詳しくうちの先祖たちについて調べてみました。

 まず、父方の先祖である公家の「清水谷家」について調べてみました。
そして、母方の先祖である「林田藩主建部家」についても調べてみました。
藤原氏と西園寺家はあまりに有名なので調査を省きました。
最後に、父方の先祖の藤原公季のさらに先祖の「中臣(藤原)鎌足」の先祖についても調べてみました。

・清水谷家について

 「清水谷家」という公家の名前ははじめて聞きました。
藤原北家閑院流西園寺家の支流にあたり、由緒ある家柄だそうです。
公家としての家格は「羽林家」とのこと。
この羽林家というのは、公家の中でも比較的高い家格で、朝廷の儀式や典礼に携わるなど、重要な役割を担っていたそうです。

 江戸時代から明治時代にかけて、朝廷や幕府の重要な役職に就くなど、政治の中枢で活躍したみたいです。すごいじゃないか!
明治になってからは、清水谷家は伯爵家に列せられています。
学問や文化にも深く関わり、多くの文化人を輩出しているみたいです。

 清水谷家の人で「戊辰戦争」(!)に参加していた人がいました。
公家の「清水谷公考(しみずだにきんなる)」という人で、蝦夷地鎮撫を朝廷に献策し、箱館裁判所総督、そして箱館府知事に任命されました。
しかし、旧幕府軍の榎本武揚率いる新政府軍の攻撃を受け、一時青森に避難を余儀なくされました。

 その後、政府軍を指揮して箱館を奪還し、「箱館戦争」の戦後処理にあたりました。
えぇー! スゲー人じゃん!!
・・・と思ったら実際の指揮は黒田清隆とかの参謀たちがとったそうです、なんだお飾りだったのかよ。
この人が戦後処理を行った、というのは事実のようです。
その後は、開拓使次官などを歴任し、明治政府の北海道開拓に貢献したそうです。明治4年にロシアに留学もしてますね。
享年38です、過労がたたって早死にしたみたいですね・・・。

 もう一人の著名な人は、「清水谷実英(しみずだにさねあきら)」という人です。
この人は、明治から昭和初期にかけての、なんと軍人の人です。
日清戦争や日露戦争に出征していますね。
無事、生きて帰ってこれたみたいで、享年71まで生きています。
最終的に中佐の階級にまでなっています。
軍務を終えると宮内省に入り、侍従や宮中顧問官を務めるなど、皇室にも深く関わっています。

 清水谷家の現在の当主を調べてみましたが、よくわかりませんでした。
24代当主の「清水谷公揖」という人までは確認ができました。

・林田藩主建部家について

 林田藩主建部家は、豊臣秀吉に仕えた「建部光重」を祖とし、播磨国林田藩を250年以上治めた外様大名家です。近江佐々木氏の一族とされているそうです。

 建部光重という人は、関ヶ原の戦いで西軍に属したとのこと。おいおい!
池田輝政の取りなしによって改易を免れ、その後大名に列せられています。ホッ。
元和元年(1615年)、「建部政長」が尼崎藩1万石を与えられ、これが林田藩の始まりとなります。
7代藩主の「建部政賢」は藩校「敬業館」を創設し、学問と武道の両方を奨励しました。明治まで10代続いています。
明治になってからは、林田藩主建部家は子爵に列せられています。

・歴代藩主一覧

初代 建部 政長(まさなが)【1603~1672】

二代 建部 政明(まさあき)【1638~1669】

三代 建部 政宇(まさのき)【1647~1715】

四代 建部 政周(まさちか)【1674~1757】

五代 建部 政民(まさたみ)【1698~1779】

六代 建部 長教(ながのり)【1724~1764】

七代 建部 政賢(まさかた)【1747~1818】

八代 建部 政醇(まさあつ)【1795~1875】

九代 建部 政和(まさより)【1833~1863】

十代 建部 政世(まさよ)【1854~1877】

   建部 揆(政和弟)

   建部 秀隆(子爵)

   建部 光麿(子爵)

 建部政世の子孫は「建部光麿」という人までたどれましたが、この先はわかりませんでした。
最後に確認できた光麿という人の子孫がうちの母になるかどうかはわかりません。
林田藩主建部家の家系図を見てみましたが、いろいろな分家に別れてますね。現在の当主はわかりませんでした。
うちの母方の林田藩建部家は本家だそうですから、うちの母が当主ということになるのでしょうかね???

・中臣(藤原)鎌足の先祖について

 最後に「中臣(藤原)鎌足」の先祖について調べてみました。
明確な記録が残っているわけではなく、よくわからないみたいですが、以下の説があるそうです。

  常陸地方の「卜部(うらべ)氏」にあるという説があります。
卜部氏は、占いや呪術を司る氏族であり、中臣氏も宮廷の祭祀に関わっていたことから、この説が有力視されています。

 中臣氏の祖先は、朝鮮半島や大陸からの渡来人という説もあります。
姓の「中臣」が、中国の官職名に由来していることから、この説を支持する声もあるそうです。
そういえば、関裕二という人が鎌足は百済の王子「豊璋」だとする説を唱えていました。


「清水谷家」「林田藩主建部家」「中臣(藤原)鎌足の先祖」について調べてみました。
清水谷家の人で戊辰戦争に関わりのある人がいるとは知りませんでした。
林田藩主建部家も明治まで10代にわたって続いていました。
鎌足の先祖についてはよくわかりませんでしたね。

 以上です。

 



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諸葛鳳雛@真の歴史探偵
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