日本人の発想かも
山に行って、それが楽しかったかどうかを左右するのは天気。
天気が良くて楽しい山行だったときは、「今回は山に笑ってもらった」といって帰りがけに一杯やるのが私の習慣です。
天気が悪かったときは、「山の機嫌が悪かったな」といって残念な一杯をやることになります。
どっちにしても一杯やるんです、ハイ ・・・ が、それはともかく、私は山には登らせてもらっていると思っています。
誰にって?そりゃ、山にです。
山に登ることを許してもらっている、と思っているんです。
若いころは、こんなことあまり考えたことはありません。
しかし、若くてもこういうことを考えていた方がいます。
それは今上陛下です。
陛下は、山好きとして良く知られています。日本山岳会の会員でもあります。
陛下がまだ皇太子だったころに、雑誌「山と渓谷」に寄稿されたことがありました。
皇族がこういう一般誌に寄稿すること自体が非常に珍しいことでしたが、書かれていた内容もしみじみとしていて深い味がありました。
それには、自分は山に登れて幸せだということと、山に登れることに感謝しているということが書かれていました。
皇太子殿下が登山するとなると、周囲の人たちの苦労は大変なものがあるでしょう。
だから、それに対する感謝という意味もありますが、それだけでなく、山にも感謝すると書かれています。
その通りだと思って、私は何度かその箇所を読み返しました。
山に登らせてもらっているという考え方だと、「頂上にアタックする」というような言い方もできません。
アタックって攻撃という意味ですから。
実は、これはマナスル登山隊の隊長だった槇有恒さんが講演で話していたことでもあります。
槙さんが決してアタックとは言わなかったということは、マナスル登山隊の隊員だった松田さんの講演でも聞きました。
「アタックなんて言うな、登る・登ったと言えばいいじゃないか」と言っていたそうです。
こういう考え方は、日本人の基本的な発想に通じるのかもしれません。
山に登ると小さな祠があったりして、そこにお賽銭がおいてあったりしますよね。
山は神様の住むところ、というのは日本人の発想だろうと思います。
修験者は山で修行するし、お寺はたいてい〇〇山××寺といいますし。
そして、何度も山を登っていると、人間(自分)はちっぽけな存在だなと思う時がありますからね。