人間が生きる意味と死ぬ意味。心のままに綴る言葉たち。
2018.01.13 21歳
死後人間がどこへ行くか、僕はわからないとは思わない。
人間はいま、死ぬことがあまりにも現実的でない場所で生きている。
わからないことに対して、人間は怖がる。
わかりやすいもののなかで暮らし、本質的なことを遠ざける。
「死」とはなんだ。
それは、役割だと思う。
自然のなかで、生き物は自分の役割を果たしている。
人間の身体は死後、腐敗する。腐敗とは微生物の生命維持活動であり、また腐敗によって人間は新たな要素へ生まれ変わる。
生物の「死」は、他の生物の「生」へ繋がるものだ。
人間は肉を食べる。その肉は、それまで生きていた命。その命の死によって、僕たちは生きる。
すべてのものが自然のなかで循環する。
そのことへの無関心は、何を引き起こすだろう。
自然界にもともと「汚い」ものなんてない。
でも、人間は人間にとって汚いものをできるだけ少なくする。
自分たちの「死」さえも、汚いものとして遠ざける。
肉や野菜は、人間の食べ物じゃない。
牛は牛であり、人参は人参で、人間と同じように生きている。
それを人間は、人間が生きるためにいただいているだけだ。
人間を侵すウイルスは、有害なものとしてこの世に生まれてきたわけじゃない。
人間にとっては憎らしい存在でも、彼らは彼らなりの役割の果たし方をしている。
人間にとって汚いものの排除は、他の生き物を本当の意味で殺している。
山や雲を見て気分が落ち着くのはなぜだろう。
それは、それらが自然の循環の役割を迷いなく果たしているから。
「根を張って」生きる。
迷いなき植物への、人間の憧れ。
人間の役割とはなんだろう。
考える必要はない。生きることそのものだから。
何かを「する」必要はない。
自分自身が「いる」ために、必要なことをしていればいい。
庭の草木のように。堤防から眺める海のように。
自然の側で、繋がりを感じて暮らそう。
最近、気づいたこと。
人間は失いたくないものを守るために生きている。
今、この「失いたくないもの」があまりにも多い。
人間は物欲のままに、新しいものを求めている。
結果として大量のものを所有する人間は、それを守るために多くの時間を費やす。
守るものが多いことは幸せだと思う。
もしもそれが本当に大切なものならば。
でも、所有するすべてが大事なものだとは限らない。
大切でないものを所有することによる労力は、「いる」ためのものじゃない。
何よりも、多すぎる所有は本当に大切なものを見失わせる。
何を大事にして生きていくか。
このことが、人間の生き方を決める。
さて、どんな人間として生きよう。
大切なものを大切だと感じて、大切にするために。
僕は立派な人間になりたい。
それは東京の高層ビルに住むことではなくて、社会的地位の高い職に就くことでもない。
Facebookの友達を増やすことでもないし、たくさんのものを所有することでもない。もっと自分の内側にあるもの。自分自身の中にあるもの。
でも、大切なものは自分だけ?
自分の他に大切だと思えるものが、僕にはまだみえにくい。
ピストルから放たれた銃弾を、自分の背中で受けて守りたいと思えるもの。
それくらい大事だと思える自分以外のものにも、目を凝らしていこう。
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