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大量消費社会で生きるストレスと、僕がミニマリストを目指す理由。

2017.07.05

今回のテーマはミニマリスト。近頃よく耳にする言葉であり、また僕自身もミニマリスト志望を名乗る者の一人である(あくまで志望というのが重要)。ブリタニカ国際大百科事典の解説をみてみよう。

ミニマリスト
最小限綱領派と訳す。最小限度の要求を掲げる社会主義者の一派をいう。かつてロシア社会革命党内の妥協的な穏健分子がこう呼ばれた。(以下略)

ミニマリストとは、元を辿れば社会主義者の一派を指していた。資本主義がもたらした大量消費の否定という見方をすればあながち間違っていないけれど、現代では新しい言葉の意味合いをもって使われるようになった。

【ミニマリストとは】

世間一般の定義をまとめると、不要なものを排除することで必要最低限度のモノで暮らす人を、ミニマリストと呼ぶ。際限なくモノが手に入る時代において、常に「求める」暮らしから「足るを知る」暮らしへと考え方をシフトさせる。自分が所有するモノに対してこだわりをもつ人たちのことだ。

モノを持つことの虚しさからアメリカの富裕層が提唱し始めた。簡単に例えると、行きつけのラーメン屋に通いつめてラーメンを食べ続けた結果、好きだったはずのラーメンがもう食べたくなくなってしまったということだ。

【余分なものがない暮らし】

僕は現代社会の大量生産・大量消費社会に強く疑問をもっている。

京都にある人口80人の限界集落・久多に行った時のこと。京都駅から電車・バス・車と乗り継いで2時間弱。果てしなく秘境感漂うこの土地に、僕は2度滞在したことがある。

この集落にはお店の類は何一つない。冬場は雪で埋もれていただけかとも思ったけれど、雪が解けても何もなかった笑。

この村から学び得たものは多くあるけれど、素直にいちばん衝撃を受けたのはまさしくその「ない」ことだった。この「ない」という感覚は、もちろん都会と比較したものでしかない。本屋や映画館などの娯楽施設だけでなく、生活必需品を買う場所もない。僕が生きるために必要なものがない。

こんなにも「ない」環境のなかでも、暮らしを営む人たちがいる。その発見は自分自身の生活を改めて考えるきっかけとなった。普段じぶんがいかに不必要なものに囲まれて生きているかを突きつけられたのである。

【「ある」が当たり前の価値観】

スーパーに行くと、溢れるほどモノがある。そんなことは当たり前だとして、僕が言いたいのは「ある」のが当たり前だと思ってしまっている僕たち消費者の考え方に根本的な問題があるのではないかということ。

もし買いたいモノが品切れであれば、僕たちは品揃えの悪いお店だと判断してそのお店を使わなくなる。なぜなら今の日本にはモノが溢れるお店が他にもたくさんあって、僕たちは買う場所を選択できるからだ。結果、お店は売上を維持するために必要以上のモノを用意することを強いられている。

常に商品が棚に並んでいる状況を求める僕たち消費者こそ、大量生産社会に加担している人間なのだ。無限にモノがあると思うから、簡単にモノを捨てるようになってゴミも増える。

【本当に必要なものを見極める】

先日、久多を共に訪れたメンバーに再開する機会を得た。そこで驚いたことは、彼女はかれこれ半年間一度もコンビニを使っていないという。

コンビニはその名の通り、たしかに便利な存在である。しかしその便利な存在に僕らが甘えることによって、社会に負荷をかけていることも事実だ。

僕がミニマリストを目指す理由。それは本当に必要なものを見極める力を養いたからだ。断捨離やら何やらとミニマリストという言葉は極端に捉えられがちだけど、大切なのはどうしてそういう暮らしを選択するのか、その理由にある。無駄な消費をやめて、社会に負荷をかけることをやめる。

もちろんこの資本主義社会で生きている時点で、大量生産・大量消費の仕組みに与せずに暮らすことは不可能である。だからこそなくても生きていけるんだという気づきをもって生きることが、持続可能な暮らしへの第一歩となりうる。生きていくために必要なことは意外と少ないものだ。

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