見出し画像

人との話題も見えないこんな世の中じゃ 【前編】

●インドア男子も、人との話題はあった。
●便利だから、目の前の人との話題探しも難しい。
●ここに自分がいる意味。

先日も行きつけのカフェで、

お絵描きや創作活動する時間を共有したり


それから派生して雑談したりする試みをやってました。

広報手段は主にFacebookとTwitterです。

(※その発端については本編ではなくこちらにリンクを)


インドアな僕に共感した人や
僕を知っている方が

県外にいても、海外にいても、
その情報を広げてくれる。

(しかも、印刷代はかからないし…。)


しかしこれが、

ネットの向こうの世界を

知ることのできなかった時代では、


こんなことはできなかったよな…と、

試みの準備をしながら

ふと思っていたわけです。


僕も小学校低学年くらいまでは


ネットが日常にはない生活を


それこそ普通だと思って生活していました。

ネットが身近なものになる前とその後、


それが取り巻く「コミュニケーション」との関係について


思いを馳せて書いてみました…。

~人との話題も見えないこんな世の中じゃ~
前編

●インドア男子も、人との話題はあった。

インドア趣味な僕でも、

保育園の頃に
「団体行動が苦手」と言われた僕でも、

当時は意識することもなかったんですけど、

周りの人とは

ざっくりいえば、

その日のテレビの話題をしてれば


それとなく話せたわけです。

長寿番組、プロ野球中継、

音楽番組、家庭の知恵…

小さい頃、耳に流れていた演歌の番組は、


僕のカラオケ好きの趣味と、祖父との話題を


生み出してくれたバックグラウンドです。


プロ野球なんかは

父や何人かのクラスメイトと

コミュニケーションをする

話題になっていました。


…今思うと、


そこにTVがあったから、

当時の僕は


あまり苦労しなくても、

他人との間にある、それなりの「共通の話題」は

あったわけなんですね。

●便利だから、目の前の人との話題探しも難しい。

ところが、

今の娯楽の手段はTVに限らず

インターネットが普及し、

携帯電話でもゲームができるようになったり


自分の番組のようなものを作る人が出てきたり

ブログやSNSで
自分の毎日を発信できるようになります。

そうすると

チャンネル争いの発生するTVより


ゲームやYouTubeで

見たり体験できるもののほうが

なんだコレ!こっちが面白いじゃん!
と感じる人もいます。

SNSひとつにしても


利用登録は実名が義務か/仮名・覆面でいいのか、

使う側は
見る・受けとる専門で利用するか

自ら発信する目的で利用するかで


個々が選ぶものも違ったりします。

Facebookがあれば

人との話題のタネが見つかるよ…というわけではなくて

Facebookをやらないのも、選択肢のひとつです。

(体感上、僕の後輩はそんなにやっていません)

見える世界の
広さの上限が上がって

娯楽や情報収集のジャンルが多様になった。

自分の好きな話題に
自分と考えの近い世界に

アクセスして時間を過ごすことができました。

ということはですよ、
その反面、
何が起こったかというと

地理的に近い目の前の人と


「共通の話題」がヒットする確率

昔と比べたら

明らかに減っていっている…ということになりです。

むろん、それを悪いとはいいません。


Jリーグの試合よりも

ヨーロッパサッカーのほうが
観ててワクワクするなら


その人にとっては本能的に、
そちらが見たくなるんだし、今は見られる時代です。


真剣にプロを目指すサッカー少年なんかは、
「参考資料」としてそれを見るでしょう。


そうなると今は


家族団らんひとつとっても、



個人の時間の過ごし方が違ってきたら


そもそもの
家族での話題が一致しにくくなりますし


クラスの中でも


話題や趣味がバラバラ…

考え方が合わない…なんてのは


珍しくないのでは、ないでしょうか。

人間、
いづらい場所にいるよりも


自分が気楽になれる場所

自分のためになるもの、

自分と考えの近い人が、

目の前に用意されていれば




自らの本能が
喜ぶ方向に流れていく
のは


人間なら当然の流れだと思います。



目の前にある世界と人と

付き合うことが主だった

むしろそれしかなかった

世代・人と




物理的に直接会えるわけではないけれど

考えの近い人や
自分にとって「いい人」のもとに


心を向けることが
当然のようにできる

世代や人。

両者の間では、


他人と共通の話題を見つけることや

同世代相手でも、相手との考えを交わらせることに



難易度に大きな差

があることは明確です。

共通の話題は

なくなってしまった!というわけではなく


今でも昔でも、普遍に通じるものはあるのです。

しかし、今までお会いした人のなかで

それを意識して「使えている」と感じた人は、

仕事上身に付いた
誰かから筋道たてて教えてもらった…など、


だいぶ限られているように、僕は思います。

(僕の持論は、長編ですがコチラに)


僕も、

人とある程度共通の話題はある

時代と

多様すぎ

目の前の人との共通の話題ひとつ見出だしにくくなってる

時代との

「常識」には、

違い・変化があることを
自分なりに落とし込むのに


時間がかかりました。


(逆に言えば、座学やキャンパスライフだけではわからない、

ギャラリー巡りやトリの話しbaなどで、
いろんな人と話せたから、気付けたのだと思います)


上の世代は

人と直接、生で、電話で、
話すのがライフワークなわけだから

スゴいなと思います。尊敬します。



かといって、



「共通の話題は比較的用意されている」


世代の人生の先輩たちを見習おうと


同じリズムで

僕が同世代と話そうとすると、

自分に合う『色』を

数多くの中から好きに選べるのが当たり前の

今の世代の人にとっては


「僕の色の押し付け」

みなされるでしょう。


(僕自身もそれを感じた時期がありました)



逆に、僕の世代だけで


地域(全体)のための

イベントをやってみたぞ!

と何かを立ち上げてみても、


目標としては「様々な色の人」
のためにやって来たつもりでも


そもそも企画段階や議論の時点で

ササッと集まれた近い色の人だけのためにしか

ならないものを作っていて


やり方によっては、

それに無自覚なのだから、

同世代でも違う色の人から嫌われたりしてしまうかも、しれません。

僕の場合は、

「これは◯◯な色の人向けだな…」というのを自分の中で決めておいて

招待や宣伝文、
プレゼンなどを用意することが多いです。


●ここに自分がいる意味。

便利になったが故に

顔合わせする範囲においては

趣味や考え方の合う人が

見つけにくくなったと書きましたが、



それこそ、
人が勝手に集まってくる(イメージのある)
都会なら、

同じ色の知人やコミュニティを、

100人とかで作ることは

容易いでしょう。


しかし、

人の限られた地方だと

それは比較的難しく、


僕は今の時代、地方で生きていくには



①文明の力を使ったりして

やっぱり色の近い人のもとに行く

(人によっては「逃げる」という人もいますが)
か、


色が全く異なる人とも

互いの違いを理解し繋がり
うまくやっていく。


この2択に

限られていきます。



この後者の役割を託されたのが


僕のいる大学の


地域学部


生まれた

時代背景なのかなと、
考えたりしています。


僕が入ったときには、
文系・理系の学生が混合している学部で、


1年の頃に読んだテキストの副題には

(つながり を 取り戻す )とあります…。


しかし、

きっと、地域学部にいる人にも、

というか、
他ならぬ僕がですよ、


大学に入るまで、
限られた色での人付き合いしかしてこなくて


中学の頃ぐらいから

家では
TV<パソコン
の生活だったし、


自分の世界を仮に「緑」とすると、


緑なら緑の
世界や人だけに濃く染まってしまって、

他の色の人と
うまくやっていたわけでもない
僕。


…そんな現代特有の魔の手に
どっぷり浸かりきってしまっていた僕が


今さら
つながりを取り戻すとうたわれてる


地域学部で


何ができんのかねと、


すごく今、苦しく感じています。


僕に限った話でなく、
もともと、大学入試のシステム上、


地域学部に沿いそうな、

いろんな色とうまくやれる人
ばかりが選抜されて

僕の後輩になったわけではありません。



全員が全員、希望してこの学部に来れた人だったり、

鳥取が好きな人ばかりなのかというと


そうではありません。


鳥取で出会った◯◯さんは好き・とてもお世話になったけど、

鳥取全体が好き…だとは限りません。



地元育ちの中高生だけど
鳥取から出ていってやる!という人もいれば、



進学で鳥取には来たものの、

正直、
いろんな色を選べるこの世界では

この地域や人が
自身の体に合わない学生だって、いるでしょう。


一方で、

最初はいいイメージを持っていなかったけど、
だんだん鳥取を好きになった人もいれば、


一端進学や就職などで鳥取を出るけど、
将来は鳥取のお力になるぞ…!という人もいます。


最近の僕は
こういう色の方との付き合いが
多くなっていますが、


でも、この色の人たちだって
鳥取全体から見れば、

数ある色のひとつ、
「ごく一部」だという意識、

あくまで世界は広いという意識は、
僕のなかでは変わりません。


それでも、

今の僕にできることは

何だろう…。


3つだけ、挙げてみました。


~後編に続く~

読んでいただきありがとうございます。いただいたサポートは、鳥取のアートシーンで活動されている方々を応援する際に使わせていただきます。