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人との話題も見えないこんな世の中じゃ【後編】

前編を読んでから下に進むことを強くオススメします

後編
①自分が「緑色」なら、緑色の人間ですと訴える
②他の「色」を知りに行く
③自分自身が、様々な人から愛され、「パレット」になる

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自分の知ってる世界の向こう側

自分の住んでる地元の向こう側

インターネットが当たり前になる前、それを知ることのなかった頃は

まわりくどく言えば、

身近な人と、話さざるを得なかったし、

そんな人々と、折り合いを付けざるを得なかった。

逆に言えば

「共通の話題がない…」なんて悩むことも
今よりはなかった。

しかし、時を経て、いわゆる「便利」になって

見ること・知ることのできなかった世界を
体感しやすくなった。

コミュニケーションツールができ、

「遠くても近い人」とつながりやすくなった。

しかしその反面、
物理的には近くにいるけれど、考えが合うわけではない

「近い人とはますます遠く」なってしまって…

という話を(かなり前に)しました。

かくいう僕自身も、
スマホデビューこそ弟のほうが早かったけど

PC、インターネットには家族の誰よりも早く触れ

趣味のあわない、
「近くて遠い人」との付き合いより

「遠くても近い世界」にいることが気楽でした。

特定の芸能人やスポーツチーム、
ゲームのファン同士でも

近くに語れる仲間がいなくても、
今は仲間を「近くに感じる」ことができます。

なのに、いま、

どちらかというと僕は
近くて遠い人々と向き合う場にいて、

両者の間で見つけにくい「共通の話題」を
見つけたり作り出すことに

喜びを感じている自分がいます。

大学に入るまで「遠いけど近い世界」でばかり過ごしていた僕が

近くて遠くなった世界の、人々の

つながりを取り戻そうと掲げる

「地域学部」というところに(仮にも)います。

そんな、
説得力がない過去を抱えてるに、何ができるか…。

後編として、書いてみます。

※要所に出てくるイラストは、
某カフェでの談義で人と話してて浮かんだ・頂いたイメージで、
100%オリジナルというわけではありません。

人との話題も見えないこんな世の中じゃ 後編

①自分が「緑色」なら、緑色の人間です、と訴える



自分が散歩コースとしている街並みや
特定の地域

僕が足を突っ込んでいる
特定の分野・業界においても



若い人や学生はきっと
こう思っているだろう…
という

(相対的に)若くない目線からの


当事者の若者自身のリアルな声

とが

両方の話を聞いた限り、
あまりにも、かけ離れていることがあります。

「なんであの人は○○なんだ!」

と嘆く。

僕だって、嘆きたくなります。

互いの考えや現実を

聞きあう機会(時にはその発想そのもの)が
ないんだなという事実に。

かといって、
周りの人や、人生の先輩方が

こちらの考えを
話さないでも悟ってくれるような、
テレパシーの持ち主ではありませんから

まず自分にできることは

僕のほうから、
「上」や「外」に対して

自分のバックグラウンド、立場、意見など

「色」を訴えることです。




学外の方からしたら、
美術部・写真部に入ってる学生は


みんな絵や写真が上手くなりたいに
決まっているだろう?


…という前提は、
必ずしも、正解ではありません。


鳥取に住んではいるけど、だからといって、鳥取のために活動をしているかというと…

動機は、人それぞれに聞いて、
発させてみないと、わかりません。

(表現活動なので、そもそも『他人のため』より
『自分勝手』な要素があるものです…)

上はあくまで極端な例ですが、

自分のリアル、
自分達のリアル、


私は◯◯な色の人ですよというリアルを、

(仮に、)
私は緑色の世界の考えを持ってる人ですよ

開いて発していくことで

初めて、他の『色』に触れる

機会に立つことができたり、

遠いと感じていたものに
少しずつ近づくことができるようになります。

逆に、

直に会っていない・腹を割ってないままに、

学外や年輩のあの方はこう考えているだろう…と
僕が思いこんでしまうのも、
危ういことですけどね。

②他の「色」を知りに行くこと

趣味や考えの近い人と
物理的距離をこえて繋がりやすくなったいまは、

その反面、
物理的に近くても考えの違う、「遠い」人とは

話す機会が少なくなったり
折り合いをつけにくくなったり

①のようにそもそも、
お互い話を聞く機会すらなかったり…ということが

これからは多くなっていく(問われていく)ように
感じます。

僕だって、
「色」の違う人とは

話が合わないこともやっぱり多いので
基本的には、ストレスフルになってしまいます。


他に気の合う人と話す手段や
そういう逃げ道が目の前にあるのなら、


意識していない限り、防衛本能がはたらいて、

楽な方を選ぶのが、人間なんだと思います。


僕でも、
学部内で多くの時間を過ごすであろう同級生を前に

「話題を合わせよう」「さすがに日々の行動が違いすぎるのはマズイ」なんて思って


夜更かししてみたり
やったこともないアプリゲームをインストールしたりして

無理やりついていこうとしたこともありましたが

長続きしませんでした…。

大きな野望も抱いていない、
むしろ夢を砕かれた心持ちの状態の僕が

「周りの言うことなんか聞かなくて生きていこう!」なんて

リスキーすぎました。

とりあえず身の周りから
「外れていない」状態になりたくて、

「僕はあなたと同じ色ですよ」という

今考えれば面白おかしい自己暗示をしようとしていたんです。

しかし、今考えてみると
(自分なりに悩んで撰んだ)課外活動については、


常識の違う留学生と話してみたい

上の世代の人と話してみたい

同世代でも自分とフィールドの違う人と話してみたい…


合わせにいくのではなく、

「僕とその人は違うのは当たり前

「そのリアルの違いを知りたい」と

前提がまるごと変わり、

自分の行動に、矢印がつきはじめていました。




(時にはやっぱり、ストレスフルだったけど)

違いを聞きたい!と自分が矢印を持てたぶん、

(そして、何よりも向き合ってくれる先輩や留学生たちがいたから)

海外と日本、

相手と自分の違い

心地よく感じられたし

一部の色の世界の中で
「これはいい!」と思われていることにも

別の『色』からの

視点を持てると

「コレは本当にいい/悪いのだろうか?」と

他の色の視点を借りて、
吟味することもできます。


今思えば自分は

男子の少ない部活で10代を過ごしてきて

男友達に関する女子目線からのコメント

日々聞いてしまっていたので


物事を複数の視点で見る習慣の兆候は
あったのかもしれませんが

今では、違う色の世界を見るのも、

インドアだけど、楽しく思えています。

決して人や地域のために
デカイことはできなくとも

様々な色の立場への聞き耳をもつ、
柔らかさはついたように思いますし

私は◯◯色の人間ですというものが

キッパリ分かれていくこれからは、

他の世界に聞き耳をもって飛び込めること

必要な事だと思います…。

③自分自身が、様々な色から愛され、
「パレット」になる。


イロイロ言い過ぎて、
ちとパンクしそうですが。

どんな人でも、

言葉足らずな人でも、
決して人生経験が豊富じゃなくても

話をじっくり聞いていると、

常に何かの「信じているもの」を持っていて

それが正解だと信じながら生きています。

その「信じているもの」は

個人個人で

たとえ家族でもひとりひとり

違ってたりします。


様々な『色』に出会いやすくなったこれからは、

個々からもっと
『色』の違いを感じる場面が
出てくるかもしれません。

僕はコレを信じている、
アナタはコレを信じている

その事実は

こちらが勝手に

指一本で捻じ曲げられるものではありません。

(心理学などで操作するものでもありません。僕にとっては。)


赤い人、黄色い人、青い人…

ひとつの色しか知らなかったような僕にとって、

数々の色に出会えることは

アウトドアな同世代の行動を見て
カルチャーショックを受けた時のように

留学生と話してて
自分達の普通を疑わざるを得なくなった時のように

ギャラリーでお会いした作家さんの生きざまから
未知なる世界を見たときのように

刺激的なんです。

(でもたま~に、胃もたれもします)

たとえ

鳥取が嫌いな人、

アートにはあまり興味が…という色の話も、


いい絵の具なんです。

若いうちは、いや、

もしかしたら死ぬまで


自分がどんな絵を描きたいかを確認しながら

どの色を使うか、
どの色を頼るか

それぞれが生きていくこととなります。

そして相手は「モノ」ではなく「人」なので、


使いたい、頼りたいと思ったときに

都合よく、こちらのもとに
その手を、色を
貸してくれるとは限りません。

これは、まだまだ
僕も努力目標の段階ではありますが


いろんな色の人から
気にかけていただけて、
いろんな色を少しずつもらえる人になれれば、

やがてそこにはパレットができて、

僕にも、いい絵が描けるのかな…なんて思います。

~終~

読んでいただきありがとうございます。いただいたサポートは、鳥取のアートシーンで活動されている方々を応援する際に使わせていただきます。