見出し画像

疎開の記憶

丹後半島2日目。
私は午後から仕事があったので朝ご飯をいただいてすぐにホテルを出た。
帰りはお義母さんが疎開していた集落を通ってみようということになり、地名をナビに入れて出発。
4歳から8歳まで、4年間疎開していたというその辺りに辿り着き、ゆっくり車を走らせるのだけど、「違うわ〜」「わからへんわ〜」と不安げに窓を眺める義母リン。
「そら80年前やもん、変わってるんやで」
と夫に言われて「そうかなあ、、」とだんだん声が小さくなる。
行き止まりを右に曲がってみて、そしたら
「ちょっと止まって!」
「ああ!ここ学校やったとこや!」と。
小さな広場の先は今は病院になっているのだけれど、手前の石垣で分かった様子。
「ここ、学校やった!ほんならあっちや!」
通り過ぎてきた道を指差す。
Uターンして来た道を戻ったら
「あ!反対向いたらわかった!ここやここや!」
と大興奮。
ちょっと走ったら「停めてー!」と叫んで車を飛び降りた。
目の前の高い石垣の家が疎開していたお家らしい。
丹後縮緬の織屋さんの大きなお家で今も営業されている。
その離れにお世話になっていたのだという。
そして手前にも裏にも親類のお家。
義母リンは「ああ、ここやここや!」と涙を流しながら親類のお家の玄関に手をかけたけれど閉まっていた。
「留守やわ〜、そやけどよかった!来れてよかった、あのお家や。新しなってるけどあの石垣はそのままや。小さかったからあの石垣がえらい高こう感じたけどなあ、ああ、嬉しいわ」
泣きながらしばし、石垣を眺めて車に戻った。
「今まで生きてきた中でここの4年が一番楽しかったんや」
そう言いながら涙を拭っている。
小さな骨董品のような集落にかつて暮らしていた人たちは、夫が出征して親類を頼って疎開してきた若い母と子どもたちを優しく迎えてくれたのだ。
そんな風ばかりではない歴史を読んできたけれど、生身の人の疎開の記憶がそんなふうであったことを知れてよかった。
#diary


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?