濁った水滴
生きるのが嫌だなあと思ったときに、どうして生きているんだろう?と考える。なんで命を与えられたのだろう、こんな何もできない私に。もっと大切な人に命を与えたほうが幸せだ、とも思う。
きれいごとで、「命の重さに違いはないんだよ」と言われることもわかってる、きれいごとで。「一生懸命生きるのなんて当たり前」といわれてもわかってる。当たり前は人それぞれ違うよ。わかってる、わかってるんだけど。
なんだか文句をたくさん言いたい。悪いのは自分だって、薄々気づいてる。しっかり気づいてる。
去年読んだちょっと胡散臭い本に、びっくりするようなことが書いてあった。
とても、大きなコップに水が入っていて、水滴がぽとんと落ちる。その水滴が私たちの命。その水滴はすこし濁っている。そうして、この世で生きて、また死んだとき、私たちは水滴になって、コップに戻っていく。
コップに戻ってゆくとき、心がきれいになっていれば水滴ははじめよりもきれいな色になっている。乱れていれば、水滴はもっと濁ってしまう。
自分のやりたいことがわかって、人を嫉んだり羨んだりせずに、自分の意志で人生をいきることができたら。どんどんきれいになってゆく。私にとってこの考え方はしっくりと心のなかに入っていった。
みんなの水滴がきれいになれば、大きなコップの水がどんどんきれいになっていき、そのために生かされている、と。
生物の目的は、コップをきれいにすることのようだ。
(コップの水が本当にきれいになったら、生き物はすべて死んでしまうかもしれない。それか、きれいになる前に環境やらなんやらで滅亡するかもしれない。と、勝手に思う。)
嘘だとしても本当だとしても、きれいな心になってゆくほうが、自分はうれしい。
自分の汚い心が晴れないかぎり困難は続く。
なんとかその場はしのぐことができても、いつかまた向き合うべき問題となって出てくる。
いまできることはなんだろうね。
<じゃばじゃば/松本市にて撮影>
#エッセイ