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有限会社自転車操業3固定給福利厚生付きの「枷」
拝啓
時下ますますご清祥のことと御慶び申し上げます。
この度は弊社求人にご応募頂きまして、誠にありがとう存じます。
慎重かつ厳正に検討いたしました結果、皆藤双葉様を採用させていただきたいという結論に至りました。
正式な入社手続きはこれからになりますが、まずは内定の御通知を申し上げます。
入社にあたってに必要な書類を同封いたしましたので、御一読頂ければ幸いです。
敬具
追伸、分からない事があれば、下記の電話番号に気軽に連絡して下さい。
九条敦
〇〇〇-○〇××-×〇×〇
という追伸以下の九条の手書きの文章を何度も読み返しては双葉は初の採用通知に7割の安堵で大きく息を付き、その後3割の怖れで体が震えた。
これであの求職者と求人者との建前の心理的戦いである面接回りの日々から解放される!
だけど…これから真剣に生きなきゃならないんだ、という「社会人としての責任」が25㎏の重しを入れたランドセルを背負わされたようにずしりと背中が重くなった。
とにもかくにも、双葉は今通っているお弁当工場の深夜パートの職を、就職が決まったので辞めたいと工場長に報告した。
「え?困るなあ…こういう時はおめでとうと言うべきだけど」
と休憩室でマスクを外した工場長は地黒で濃い眉をした顔をあからさまにしかめてみせてから天井の蛍光灯を見上げた。
はあ、と双葉は神妙な顔で首をすくめながら
「でも先方の事務所さんからできれば早く来てほしいと言われましたので」
と言うと工場長は「いつから?」とシフト表とにらめっこしてから聞いてきたので「来週にでも、と」と小さな嘘を付いた。
本当は、「再来週から来てもらいたい」と九条に言われていたのだが。
深夜勤務を一年近く続けていた自分が朝9時から夕方5時まで勤務の昼型生活に入るのだから、
生活リズムを取り戻すために数日間の休みが必要だ、と思ってのことであった。
工場長はわかった、とひとつうなずくと「他のパートさん達に君のシフト埋めてもらうよう話してみるから」と答えてから休憩所角にある喫煙ルームに入って行った。
「聞いたよ、就職おめでとー!」
と笑いながら更衣室で双葉にハイタッチをくれたのは、23才で4才の息子がいるシングルマザーの本郷さん。
年齢が近いのと本郷さんだけは陰で職場の人の悪口を言わないので自然と双葉も心を開き、休みが合えば本郷さんの息子の隼人くんを連れて一緒にファミレスランチを楽しむ仲になった。
やがて白い作業着からそれぞれの私服に着替えた二人が更衣室から出て行こうとする時、背後で古参のパート職員、緒方さんの
「梅干しとカマボコは蓋を開けたらいっつも真っ先に飛び出すよねえ」
というあからさまな嫌味が二人の背中に突き刺さった。
お弁当を詰めるライン作業で双葉は梅干しをご飯の真ん中に押し込む係、本郷さんはカマボコを詰め込む係だからだ。
「お疲れ様でしたー」と若い二人は振り向きもせずに白々と夜が明ける工場の外へと飛び出した。
「あー終わったー!」
と開放感に満たされた双葉は朝陽に向かって両の握りこぶしを突き上げて背伸びしながら叫んだ。
「送ったげるね」と脱色した髪を手櫛で梳いてから本郷さんは自分の軽自動車の後部座席に双葉を押せてアパートまで送ってくれた。
「しかしあれだね、緒方さんは双葉ちゃんが夜の職場から正社員への内定っていう『いち抜けた』をしたから妬いてんだよっ!」
とハンドルを握りながら運転席で本郷さんはざまあ!とでも言うようにうひゃひゃひゃと笑った。
確かにこの一年、生計を得るためとはいえ昼夜逆転の生活。休みの日には就職活動、と目まぐるしい日々が続いた。
「やあー、双葉ちゃんはおばさんパートの陰湿ないじめにも陰口にも良く耐えた!大人しそうなタイプだから3ヶ月で辞める、と思ってたけどエライよ」
眠気で瞼が落ちそうになっていた双葉はその言葉で眠気から醒めて本郷さんを見た。
「自分の事に精一杯で全然気づかなかった」
と双葉が言うとやっぱりか、と本郷さんは笑った。
「鈍感だね…でもそれぐらいじゃなきゃ今の世の中やってけないかも」
確かに、敏感で繊細な人ほど心傷付いて苦しむ世の中なのかもしれない。
2017年1月、皆藤双葉はパート社員という革の首輪から離れ、固定給福利厚生付き正社員という鋼の枷を付ける道に入った。
21歳平成生まれ。「あの頃はよかった」と親世代はいうが、良かった昭和という時代はテレビでしか再現されないし、
古きよき時代も、バブル崩壊で失った金も二度と戻らないってもういい加減気づけよな。
と舌打ちしながら生きてきたバブル崩壊後世代であった。
プロローグ終わり。