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嵯峨野の月#139 反骨の種子
最終章 檀林3
反骨の種子
「お前はそこで私の最後を見届けろ。助けようとしたら朝廷を敵に回すぞ」
と逸勢にきつく戒められ、天井下で起こった暗殺の惨事を見せつけられても何一つ手出しできない自分が不甲斐なかった。
遺体発見で騒いでいる隙に彼は内裏から抜け出し、夜の闇に溶け込みながら拠点にしている建物の自室に戻ると己が手で口元を覆い、
逸勢さま。何故無実の罪で貴方が死ななければならないのですか!?
と短く激しく嗚咽した。
いや、あの有様こそが政の正体なのだ。
この国の歴史は体制という古くて豪奢な飯櫃の中身が腐る度に新しいものに入れ替え重く蓋をする行いを繰り返してきただけ。
藤原の圧政で民の心が窒息する前に内側から風穴を開けねば!
と思い定めた彼はすぐに文机に向かい、ある人物宛の文をしたためた。
思えば
自分の中の荒ぶる魂に気づいたのは運ばれて来た父の亡骸に対面した時からかもしれない。
その日は日差し照りつける酷暑であった。
天長七年四月十九日(830年5月14日)、儀式の際朝堂院で長時間立っていた小野岑守は突然倒れて痙攣を起こし、そのままこと切れた。 享年四十九才。
今でいう熱中症と思われる岑守の死に方にいくら任務だとは言え、既に老境にある父を死に追いやった儀式やそれを司る者やらそれを命じた朝廷やら、
いくら声を上げても何ひとつ変えることが出来ない権威の構造全てに疑問と反感抱き始めていた篁この時二十九才。
父の死をきっかけに篁は恐れず政道批判を口にするようになった。
「…最後のお言葉は咎無くて死す。逸勢さま渾身のまことに美しい書でした」
そこまで聞いた小野篁は唇を固く引き結ぶと自分が若き頃、空海阿闍梨の案内で憧れの橘秀才の家に押しかけ、自由奔放な彼の書を興奮して褒めちぎると逸勢どのは照れながら、
「そこまで褒められるのは嬉しいけど、激情に駆られて書いたものですから真似するのはお勧めしませんよ」と困り笑いをなさった。
その無欲な笑顔を思い浮かべて篁は涙を滲ませ非業の死を遂げた逸勢に向けて
もう苦しまなくていい世界でどうかどうかお安らかに。
と合掌瞑目した。
「やはり帝と北家の結託による謀だったか。真相を告げてくれて礼を言う、そなた、名は?」
と真夜中の寝所にいきなり現れた黒装束の男に向かって名を問うた。
は、と男は顔を覆っていた黒頭巾を外し、見た目五十代の穏やかな顔を篁の前に晒し、
「葛城山の修験者の頭、賀茂素軽」
と名乗った。
「修験者がなにゆえ我が寝所に?」
そこで素軽は困ったようにはにかんで、
「いやあ、
猿女君の頭領であらせられる伯母君の命で十二年前の祖母君の遺言の書に
『この日より我が孫小野篁の大事な使命が始まるのでしかと伝えよ』
と記された通りに馳せ参じたまで。…まさかご遺言どおりのこの日に政変が決着するとはは思いもよりませなんだ」
と素軽は篁の母方の祖母で亡き薑猿女君の予言の的中に本気で驚いていやはや、と首を振った。
「亡きおばあ様の巫覡の力は凄まじかったから当然だ。で、祖母が私に宛てた遺言とは?」
は、と居住まいを正した素軽の口から
「いま守るべき御方を終生守り、あなたの心のままに生きよ」
と告げられた時、篁が思い出したのはかつての親友藤原常嗣が病床で彼に託した、
良房が事を起こしたらお前が皇家を守ってくれ。
という遺言。
おばあ様、そして常嗣どの。
よりによって廃太子恒貞親王さまの代わりに立太子なされた道康親王さまの東宮学士に任ぜられたこの日、
あなた方の託宣と心配が的中するとは。
父の死をきっかけに、
心を殺して上に従い出世する事だけが貴族の生き方であり世の定めなら、
こんな世の中要らない!
と自分の心の荒ぶるままに政道批判を繰り返し、最高権力者である嵯峨上皇の御前で罵詈雑言を尽くして遠島に処された島帰りの我が!
ぷっ!くくくくくっ、ふふ!
寝ている妻子を起こさぬよう口を押さえ、堪らずに篁は笑った。
我が人生の皮肉を笑わずにはいられなかった。
やがて笑いをおさめた篁は素軽に向けて
「肚を決めた。この篁生涯かけて道康親王さまを佞臣良房からお守りする」
篁この時四十才、人生最大にして最後の使命を果たす決意をした。
側で見ていた素軽は実にいいお顔だ。と頷いた。
それは夏の終わりのかなかなかな…とやけに蜩が鳴く夕方のこと。
伊豆国流罪の沙汰を言い渡された謀反の罪人、橘逸勢を護送中の車が突然止まり、
役人の男が二人がかりで如何にも大儀そうに大きな漆塗りの箱を抱えて地面の上に置き、近くの草むらから自分たちを見ているであろう罪人の家族に向かって、
「まことに残念ながら…」
と本当は不本意だったお役目を終えた役人たちが引き渡しの口上を述べると忌み事から逃げるように車に戻って去って行った。
ああ、やはり父はもう。
幾日も歩き続けた旅の疲れも相まって逸勢の娘、逸子が倒れそうになるのを同行の娘、河鹿が小柄な体つきに似合わぬ強い力で逸子の上体をしっかりと抱いて支えた。
「少し休んではいかがですか?」と心配する河鹿に大丈夫、と逸子は首を振り、
「父は重病でしたからこうなる覚悟はしておりました。さあ行きましょう」
と気丈にも自ら棺の側に寄り開けようとするが、開かない。よく見ると蓋の縁と本体の間に蝋が詰められ封じられていている。
この蝋のかたまり具合からして、封じたのは半月以上も前?
不審に思いながらも河鹿が小刀で器用に蝋を切り裂き、棺を挟んで逸子と二人向き合って蓋の両端に手を掛ける。
「逸子さま、開けますよ」
その言葉を合図に二人が同時に指先に力をこめ、箱を開けた。
承和九年八月十三日(842年9月24日)。
橘逸勢、伊豆へ配流中に遠江国坂築駅(静岡県浜松市北区三ケ日町日比沢付近か)にて病死。
と記録として遺されている。
「して、箱の中身は本当に逸勢どのだったのか?」
ここ平安京の内裏から北東にある、桃園。と呼ばれる阿保親王の邸の使用人の控室。
窓から差し込む夕陽が賀茂素軽の右頬と烏帽子の下の半分白くなった髪を朱く照らしている。
彼の前に片膝立ちで畏まるのは遠江から都まで戻ったばかりで煤けた旅装のままの河鹿。
縮れた髪を束ね、彫りの深い凛とした顔立ちのことし十八の素軽の末娘である。
橘逸勢の流罪が確定し、父の身柄を追って単身都を飛び出した橘逸子の警護を命じられて任を終えて戻った河鹿は促されて報告を続ける。
「はい、父である、と逸子さまご自身がお顔をあらためましたので間違いないかと。それと致命傷と思われる刺し傷が鳩尾にありました。
…しかし、全身朱塗りの骸には驚きました」
「朱(丹を砕いた塗料)には遺骸の腐敗を遅らせる効果があり、古来より王や貴人の骸に使われておった。季節が季節なだけにやった側も慌てて処置したのだろうな。で、逸子さまのその後は?」
「近くの寺で逸勢さまの弔いと埋葬を終えるとご住職の手によって出家なさり、この寺で尼僧妙冲として父の墓を守って行くつもりだから。と暇を出され戻って参りました」
そこまで聞くと素軽は無表情だった顔をやっとほころばせ、
「ご苦労だったね、気の済むまで休みなさい」
と修験の師から父親の顔に戻って娘を労った。
旅装を解いて着替えた河鹿は厨で出された飯を平らげてを甕から柄杓で水を飲み、自室に戻ると仰向けに横たわって長旅の疲れでそのまま深く眠った…
あの時
父の命を受けた河鹿が都を出て最初の関所で見たものは、
「姓も持たぬ庶民以下の女を通す訳にはいかない!」と旅姿の逸子が屈強な番人に突き飛ばされる理不尽な暴力。
すかさず逸子と番人の間に入った河鹿は「此度は我が主人が大それた事をしてあいすみません…」と使用人のふりをして平身低頭し、地面に背中を打って咳き込む逸子を連れて一旦は引き下がった。
介抱の最中に我が名と任務を明かした河鹿が「行きつく所まで警護致します」と告げると逸子の顔に初めて安堵の色が浮かんだ。
「番人たちは夜は眠るので関所には立ちません。その間に潜り抜けましょう」
逸子たちは朝と昼は草むらの中で眠り、夜の間じゅう護送の車を追って街道を歩いた。
慣れぬ徒歩で何度も血豆を作り足をくじく逸子の手当てをする度に河鹿は白く美しい貴婦人のおみ足がこんなに傷ついて…と心痛めた。
ひと月以上の行程で幾度か河鹿が逸子をおぶって歩き、四人の賊に囲まれたのは遠江に入る前夜のこと。
「ほほう…二人とも上玉だぜ。身ぐるみ剥いでたっぷり味を試してやろうではないか」
松明を掲げた先頭の男は舌なめずりするように二人を検分し、手下たちも下卑た笑い声を上げる。
賊どもはきっと訳ありの女二人連れなんて簡単にどうとでも出来ると思っていたのだろう。
しかし女修験者に出会ったのが運の尽き。
「私から離れて伏せて下さい、決して顔を上げないように」河鹿が言うと逸子は素直に従い地面に顔を伏せた。
「俺と弟は娘のほうを、あとは後ろの年増のほうを、な」
賊どもは一気に二人を脅して捕らえようと目配せし合い、腰に差していた鉈に手をかけた。
今だ!河鹿は髪に差していた暗器、釵子(鉄の棒を二つに折り曲げたかんざし)を両手で素早く抜いて先頭の男と弟、と呼ばれた男の喉元を貫いて一撃で仕留め、
慌てて逃げようとする両側の男たちに向けて縄鏢(先端に刀を結んだ投げ縄)を強く振り回し、一間半(約2.7メートル)先まで飛んだ刃先が一振りで残り二人の延髄を切り裂いた。
たった二撃で四人の賊を仕留めた河鹿は倒れた男たちに油断なく歩み寄り全員の死を確認すると
「さ、行きますよ」と逸子の手を引いて足早にその場を離れた。
歩いている間じゅう逸子は細かく震えてずっと無言だった…
小川のほとりで休憩し、月明かりのもと暗器の血を洗っている河鹿に逸子は「先程はありがとう」と礼を述べた。
「当然のつとめを果たしたまで」と答えると逸子さは来た道をじっと振り返り…
「あれが、人間というものの正体なのですね」
と悲しみも惨めさもとうに枯れた声で呟いた。
「逸子さま…」
河鹿を起こしたのは同宿の武官、賀茂志留辺。
「大分うなされてたぞ、大丈夫か?」
と心配そうな青い目で覗き込む志留辺の胸に縋り付いた河鹿は溢れ出た感情のままに、
「国で一番偉いからって人から身分を奪ってもいいの?身分を剥奪された者にはどんな狼藉をしてもいいの?力弱い女だからってなぶり者にしてもいいの?
何よ、みんなみんな人でなしじゃない!」
と夜着ごしの志留辺の分厚い胸を激しく叩き、顔を埋めて泣きじゃくる。
任務の道中、河鹿が見てきたものを察した志留辺は頷きながら黙って彼女の話を聞いていた。
三年前、父の素軽と共にこの邸に来た時は気の強そうな顔した小娘だとばかり思っていたのに。
いつの間にかこうして初めて弱さをさらけ出して縋ってくる河鹿に対して今まで憎からず思っていた気持ちが愛しさに変わっていたのを確信した瞬間、河鹿の両肩に手を置いて、
「好きだ」と彼女の目を見ながら想いを打ち明けた。
不意打ちの告白に驚く河鹿に「…いつから?」と聞かれた志留辺は「まったくいつからなんだろなあ」頭を掻いて照れ笑いする。そんな彼の誠実な態度に河鹿は「んもう、私は一目で好ましいお方だと思ってたのに!」
と彼の首元に手を回し胸に顔を埋めた。
「いいのか?下級役人の武官だから命の保障は無い。苦労させるぞ」
「山育ちで生きる術は身につけておりますし、それを修験者である私に問いますか?」
「全くだ」
ふたりは笑い合い、急に黙り込むと志留辺はまずは河鹿の額、頬に唇を触れ、そして熟れた梅の実のような唇を何度か強く吸った後で脱力した河鹿に「明日は非番だから」と囁くと白衣をはだけた相手の瑞々しい肢体を抱き締めて床に倒れ込んだ。
翌朝、
井戸から桶に水を汲む素軽の後ろ姿に志留辺が声を掛けようとした瞬間、右脚を軸に立ち上がって体を半回転し突き出した素軽の右手がぴう!と空を斬り、砂埃が舞い上がる。
直前に凄まじい殺気を感じ取った志留辺は両脚で地面を蹴って後方宙返りをし、すんでのところで喉元への一撃を躱した。
標的の喉仏を獲り損ねた人差し指と中指を鉤爪のように曲げたままの素軽は
「気配を消した我の渾身の技を交わしたのは貴方が初めて。悔しいが貴方を婿と認めてやります」
と表面ではにこにこ笑っていたがその心中は嬉しさと悔しさが無いまぜになったまま。
素軽の腕試しの襲撃よりも河鹿との契りが既に知られている事の方が驚きだった。
「え、えーと、何故ご存知で?」
「互いに好き合った男女がそうなるのは自然なことだが…声が、なあ」
あ!
昂る河鹿の反った喉を思い出し、恥ずかしさで耳元まで赤くなる志留辺にさらに追い打ちをかけたのが出仕のため御車に乗り込む業平のとわざとらしいあくびと、
「声が、なあ…今宵からは事の前に妻女どのに布を噛ませておくんだぞ」
との自分より一回りも年下の主からの房事指南。
…使用人たちの遠巻きの笑い声の中、
恥ずかしくて堪らず今すぐ出仕して逃げてしまい志留辺だったが、今日は非番。
「今から親王さまに報告申し上げて新妻とゆっくり過ごせばばいいじゃないですか」と素軽に袖を引かれるまで羞恥でその場にしゃがみ込む志留辺であった…
その日のお昼過ぎ、
一人の高僧と一組の夫婦が
まるで政変の憂いを祓うかのような爽やかな風を連れて平安京入りした。
高野山での行から戻ってきた高岳親王と、神剣の名を持つ賀茂騒速と彼の妻シリンである。
聖域から戻った高岳は素軽からの文で仔細を知った上でぽつりと呟いた。
「都もすっかり秋だね」
あの夜、政の真相を見た賀茂素軽によって蒔かれた反骨の種子は篁、逸子、河鹿、業平、そして高岳の中に埋め込まれ、
今まさに芽吹こうとしていた。
後記
橘逸勢の娘、小野篁、そして修験者の頭である素軽と河鹿親子に撒かれた反骨の種。