言霊師#1 緊縛本屋
そこは、下鴨神社参道の裏路地にある見た目は昭和のレトロ喫茶店風の外観の店である。
なんでも建物と内装そのまま買う不動産用語でいう居抜き物件を買った店主がそこで古書店を開店したそうだ。
本屋の店主は同じ大学の先輩で同窓会価格で売り買いしてくれるそうなので、私も手放すつもりの本を十三冊、トートバッグに入れて思い切って重い樫のドアを開けた。
「いらっしゃいませ」と本棚の整理をしながら出迎えてくれた店主は年の頃26、7くらいの、アイロンの糊の効いた水色ボーダーシャツに紺色のデニムパンツに黒いエプロン姿の色白で穏やかな顔立ちをした青年で、
「2時ご予約の才原綾香さん?後輩の床島くんから聞いてますよ」
実に感じのよい笑みを浮かべたので私は思い切って彼に裏の仕事を依頼する時の暗号、
「私の縛りを解いてください」
を口にすると店主、箒木保はやおら紺色の縁の眼鏡をかけ…
「お茶でも淹れながらお話を聞きましょう」とカウンターに入ってお湯を沸かし始めた。
座って待っている間に私は人気作家、黒髪樹の最初のヒット作との出会いから8年。もううんざりしてしまって所持している彼の本全てを持ってここに来るまでの経緯を話した。
13の頃に呼んだ「静謐の湖」は性描写があからさま過ぎて読後に吐いて避けていたけれど、
交通事故で入院して暇だった20才の時に友人が持って来てくれた「円満猿ぐるぐるぐる」で完璧に作られた彼の世界観にハマってしまい、以降、新刊が出たらかならず買う「信者」になってしまった。
でも…一昨年買った「荒涼たる野々村砕と彼の物見遊山」の文面の全てが虚無に満ちていた。
「それから彼の文面を読むのも写真を見るのも嫌になって、でもどうすればよいか解らなくて本にかけられた呪いを解いてくれるというこの店に来ました」
と差し出された桜餅を店主が淹れてくれた宇治茶で流し込むと私は一気にまくし立てた。
「その心境の変化は読む側のあなたが成長したのです。よろしい、お引き受けしましょう」
眼鏡を取って依頼を快諾した店主はドアノブの外に「休憩中」の札を掛けると神職の装束に着替え、建物奥の秘密の部屋に私を通してくれた。
秘密の部屋。そこは古い京都人が大切にしてきた年越しに伏見稲荷神社の種火を頂いて年神を戴く竈門が鎮座しており、竈門の穴の中に店主が薪と干し藁を入れて火打ち石で起こした火が盛大に燃えたつと、
「さあ、この竈神さんの浄化の炎の中に持ってきた本をイツキへの罵詈雑言と共に全部投げ入れて燃やすのです」
という指示のもと、私は積年の恨みをこめて
「うおらあああっ!馬鹿野郎。
最高傑作だと思っていた『轍のトンボ』、結局は坂上雄司先生の『彩雲のゆらめき』のパクリだったじゃねーかあーっ!
坂上先生の墓行って土下座して謝れ!うっすい翻訳出典して他人の褌で相撲部取りまくるお前なんか作家じゃねええぇっ!」
と手持ちの十三冊(重かった)をばんっばん竈門の火に入れて燃やし、その背後で店主が
「高天原にに神留坐まります
皇親神漏岐神漏美の
命以ちて…」と大祓詞を唱えて積年の恨みを浄化させる。
ハードカバー13冊すべて燃やし尽くすた綾香はイツキなんて最初から居なかったかのようなすっきりした気分になった。
「ありがとうございました」と謝礼3万円が入った封筒を彼に渡すと店主は恭しく受け取り、
「作品で人を虜にするのも一種のカルト的な緊縛の呪いですからねえ…最近は80年代から流行った作家の本を燃やしに来るお客様が増えましたよ」
と少し疲れた笑いを浮かべた保さん。
実は先祖代々続く由緒正しい神社の神職の家系で三男坊で宮司にもなれない彼はサイドビジネスとして「身につけた正しい祓いの知識と技術」を活かした祓い本屋を始めたのだと言う。
憑き物が落ちた顔で綾香が店を出るのと入れ違いに入ってきた客にカウンターでくつろぐ保はあからさまに嫌な顔をした。
「これはこれは大作家先生、黒髪樹はん。一体何の御用で?」
最近
「彼の作品にはもともと本質なんて何もない。本質が無いものなんて読むに値するのだろうか?」
とネットで叩かれまくって昨年出した新刊が売れず借金を抱えた作家、黒髪樹はこのどうしようもない事態を打破すべく、30年前に保の先代である彼の叔父がかけた呪い、それは
元々無い中身を読書で埋めようとする愚かな大衆を作者名と題名だけで虜にして印税を稼ぐ、強烈な緊縛の術を依頼したからである。
「あんたはん叩きのネット記事、面白可笑しく読ませてもろうてます。いやはや、呪が綻びると途端に世間は手のひら返しますなぁ」
齢70を過ぎた流行(?)作家は老けてやつれた顔に大汗浮かべて、
「お願いします!先代の叔父上が掛けてくれた緊縛の呪いをもう一度お願いして読者を取り戻したいんです、金ならいくらでも払う!」
とカウンターに突っ伏して哀願したが、帰ってきたのは、
「あのなぁ、緊縛の呪は強烈な効果があるんで一人一回しかできひんのや。版元から借金してでも贅沢な生活を辞められない出版奴隷のあんたはんは既に終わっている」
「で…では世界的な文学賞を受賞して死んでも読まれ続けたい。この依頼なら叶えてくれるだろ?」
といつもは優しいおじさん。と呼ばれるのっぺりとした顔に卑屈な笑みを浮かべた彼に保は
「このだアホ!」と一喝を浴びせた。
「ええか?読者さんたちはコロナ禍を越えて真剣に生きる意味に向き合い始めて成長したんや。
つまりあんたの中身のない書き物なんて既に必要とされてない。
自然の摂理と共に表舞台から去ぬるべき。なるようになりなはれ。
死ぬまで食うに困らない分稼いでその上死後の栄誉まで欲しがる業腹な客なんて…こっちからお断りや!」
ぐう…と項垂れて店を去る作家に保は、
「そもそも結論のない論文に可を与える教授なんていてへんよ」
と辛辣な言葉を浴びせた。