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有限会社自転車操業8・薄情社会

ストーブの上に置かれた小鍋の中の甘酒がふつ…ふつと音をたてて糀《こうじ》の甘い匂いが鼻腔をくすぐる。

あ、自分はお腹が空いているんだ。

と富子先生の遺体発見から現場検証、署での事情聴取、とこの3時間ずっと緊張しっ放しだったことに気付いてふうーっとため息を付き、

「なんか、こんなことになってすいません…」
と事務所のソファから半身起こして鍋からお碗に甘酒を注ぎ入れる敦に詫びた。

一旦上の階にある「自宅」に戻り、フリースジャケットにジーンズという普段着に着替えた敦は眼鏡を取って髪の毛も少し乱れて大学生とまではいかないが大学院生くらいには若く見える。
「なんで謝るの?こんなことって、
富子先生が亡くなったこと?
それとも君がポンカンを届けに行ったこと?それとも今ここで寝ていること?
みんな君のせいじゃないし、謝る必要はない。熱いからひとさじずつすくって飲んで」

と甘酒を入れたお椀とスプーンを双葉に持たせてくれた。

通報した後、警察より早く敦が駆けつけて来てくれ、事情聴取が終わるまで双葉に付き添ってくれたし、署を出た直後に目眩を起こして倒れた双葉を慌てて担いで職場であるこの事務所まで運んでソファに寝かせて介抱してくれている九条敦という人は…

最初会ったときは何て嫌味な奴!と腹を立てたが本当は情に厚い奴じゃねえか、ちっくしょう。あれ、なんで涙が出るんだろ?

泣きながら甘酒をすする双葉に敦は「君は人生で滅多に遭遇しない大変な目に遭ったんだ。倒れて当然だよ」と言って自分も椀の甘酒をすすり、うん甘い!と子供のように笑った。
ようやく落ち着いた双葉はティッシュで涙を拭いて顔を上げた。
「九条先生って」
「うん?」
「『目眩がする?自己管理がなってない部下は困るよ』って言い捨てるタイプの人かと思ってました」
「僕…そんなに薄情な奴に見える?」
驚いた敦は自分を指差して双葉に尋ねた。
「はい、毒舌ぶっこく時は」
と指摘された敦は
ははは…と困り笑いしてから、

「まあ仕事上、海千山千の個人事業主たちと渡り合わなきゃならない。計算高い冷徹漢に見せないと舐められるからねえ」と行儀良くお椀を両手で持って甘酒の残り全部すすった。

え?じゃあスーツ着てる時の九条先生はキャラ作ってて…こっちが本性ってことか。

「君の周りの大人たちは当然のように自己責任論を振りかざしてるようだが…

昔、どっかのお偉いさんがカネも人も出さず公然と国民を見捨てた。

薄情を公として認めた、って訳だ。

あ、薄情でいいんだ。と皆が勘違いしてしまい弱者を平気で叩く風潮になってしまった。

今や一億総薄情社会。僕は自己責任論を是とする奴なんて真っ先に自分から逃げる奴で、人の形をした鬼だ。そう思ってる」

ときっぱり言い切る敦の口調は硬質で冷たく、内に根深いものがある。と双葉は思った。

その夜は敦に送ってもらってアパートの自室に戻り、別れ際、
「玄関に鍵とチェーン、窓の鍵も二重ロックにしておくように」
と敦に念を押されたので改めて窓の鍵を調べてみると二重ロックしていなかった事に気づいて自分の防犯意識の甘さにゾッとする双葉であった。

時刻は午後10時を過ぎていたので冷凍うどんを鍋で温めて食べ、お風呂に入って布団に入って寝ようとしたが、うっすら目を開けた富子先生の死に顔と首に巻かれたストッキング。その時の状況と「じゃあ皆藤さんは被害者とは個人的な接点は無かったんですね?」と何度も聞く刑事さん。

近所でたまに声を掛けてきてくれて立ち話をした程度です。個人的な感情?いえ、特に。

これは夢なのか、それとも記憶の反芻なのか…

本当はあの人の見栄っ張りなところ嫌いでしたけど、それをわざわざ言う必要はないでしょう?

と、聴取の時言わなかった事を口にしたのでああ、これは夢なのだ。なんて厭な夢…と思いながら目覚まし時計のベルが鳴る。

体の重だるさに対して頭はすっきりしていたので眠ってはいたのだろう。

取り敢えず朝ごはん食べて、お弁当作って…昨日の事を思い出したくないのでわざとテレビを見ずに出勤した。

お早う、お早うさん。と白い息を吐きながら挨拶する近所の人々。
まるで昨夜の事件などなかったかのように平穏な朝だ。片岡家の玄関に黄色いテープが貼られている以外は。

第一発見者が双葉だと外部には知られてないのだろう。

職場に入り、机の上で日経新聞を広げている敦に「お早うございます」と挨拶すると新聞から顔を上げた敦は「お早う」と挨拶を返した。黒縁眼鏡を掛けた仕事用の顔。

室内には淹れたてのコーヒーの香りが漂っている。

「その様子じゃ新聞もニュースも見てきてないよね…例の事件が変な方向に行っている」

と敦は新聞の地元の事件欄に載った富子先生の記事を赤いボールペンで囲って双葉に渡して読ませてくれた。

昨夜17時30分頃、訪ねてきた近所の住人により、

加納スミ子さん、無職(62)が遺体で発見された。

現場の状況と解剖結果から殺人事件として捜査中。

加納スミ子、無職、62才…

あら、お早うさん。就職活動頑張ってる?

あんたほんま社会人になったんやねえ…

この南部鉄の急須は皆藤さんにあげたいと思うとったんよ。

生前富子先生との会話が頭の中で何度も繰り返される。

富子先生。

あなたは一体誰だったんですか?

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