有限会社自転車操業12・箪笥の奥
ちょっと敦《あっ》ちゃん、そこの奥にある帯留め取ってくれへんか?
と母に頼まれて和箪笥の引き出しを開けた時の虫除けの樟脳の、脳天を突くような臭いが敦は嫌いだった。
あれは確か8歳か9歳の頃。いつも洋服ですごす母が月に一回、和服に身を包んで何処かに泊まりに出掛けて翌朝には帰って来る。
きっと男に逢っているんやろ、相手は敦ちゃんの実の父親かもしれへんな。
夜中、自分を泊めてくれた近所の夫婦がそう話すのをトイレに起きたついでに聞いてしまった事がある。
結局母さんは、僕の本当の父親について一切話してくれへんかった。聞くと何かに怯えるように体に固くし、
「敦ちゃんが大きゅうなったら話すから」といつもそれで話は打ち切られた。
必死で守らなければならない深い訳を知ったのはそれから三年後の事だが…
それ以来敦は樟脳の臭いと和服の女は苦手だ。
女は箪笥の奥に秘密を隠しながらのうのうと生きていられるもんなんやな。
「ご注文の品はこれでお揃いでしょうか?」
と喫茶ポーラースターのマスターが敦の前に伊万里焼のカップを置き、芳醇なコーヒーの香りが鼻腔をくすぐる。
それだけで脳内で充満していた樟脳の臭いは消え、黒淵眼鏡の奥でしかめていた顔を敦は緩ませる。
間もなく待ち合わせの相手である税理士、町田弘樹が店のドアを開けて敦の姿を確認するとよっ、と軽く片手を上げた。
「忙しい中えろう済まんなあ」
町田が敦の向かいの席に座ってマスターに注文をするとすぐに敦が詫びたが「なんのなんの」と色黒の顔を敦の前に近づけ、
「いまこの町で有名なあの事件関連やろ?」
と丸っこい目を好奇心でくりくり輝かせた。
そ、とうなずいた敦は急に声をひそめて「3年前の岩田工務店の領収書、覚えてるか?」
その一言を聞いただけで町田はすっと目を細めて敦を見つめた。
「あのホームセンターで購入されたスチール板と枠とパイプの領収書やろ?」
「そう、『組み立てたらちょうど頑丈な本棚が2つ作れるな。大工さんがなんでわざわざ?』って話してたら広国先生珍しく顔色変えて、先方に確認の電話したら…」
そうや、そうやった!と町田はぽん、と丸めた右手で左の手ひらを打ち、
「それは経費に入れなくていい、ってあっさり領収書引き下げたんやった。電話切った広国先生が両腕でバツ作った件やから覚えてる!もちろん詳細は九条、君が覚えているやろ?」
へえ、と敦は得意気に右手の中指で眼鏡の中央をずり上げ、
「内容は物置小屋の改装工事で依頼主は東村商事社長、東村壱造。被害者の内縁の夫や」
「領収書を取り下げた電話の相手は?」
「岩田工務店の若社長さん。前は確かええ会社にお勤めやったな」
なるほど、つまりはそういうことだったか。
二人の税理士は富子先生殺人事件に埋もれた隠れた真相に気づき、沈思しながら注文したモンブランを味わった。
「相変わらずここのモンブランは美味いな。という訳で町田、その時の領収書のコピー まだ手元にある?」
もちろん、と町田はうなずき「気付いてしまった以上報告する義務はあるんやけど、この忙しい時にまたまた難儀なことやなあ…」
と事務所に帰りたくない、とでも言うように天井を見上げて大仰にため息をついた。
「仕方ない、僕が初めて雇用した部下の安全のためだもの」
そう言って敦はモンブランの最後の一口を冷めたコーヒーで流し込み、昨年末まで仕事仲間だった町田の分の代金までテーブルに置いて、
「ほなゆっくりしてっておくれやす~」
と言うと足早に店を出た。
事務所で留守番をしている双葉の目の前のテーブルには富子さんから貰った南部鉄器の急須と全く同じ形と大きさの急須が置かれている。
「顧客回りしてくる」と言って出ていった敦と入れ替わりに事務所に来たのはビルの一階の自転車屋の店主で、
「九条先生に頼まれた通りの急須を持って来たでよ」
と痩せてしわくちゃの顔に人の良い笑いを浮かべて名古屋なまりで言うと双葉の淹れたお茶を美味しそうに飲み、ソファに腰かけ小一時間居座り続けた。
自分が若い頃は「名古屋と言えばあの企業」で技師として定年まで勤め上げ、縁あってこの紐梠町に店を構えたのだ。
という過去話を双葉がはあ、はあ、と相槌打って聞いている内に敦が帰ってきたので店主はじゃ、これで。と立ち上がってさっさと階下の店に戻って行った。
さて、残されたのは件の鉄の急須。
富子先生が『これ二万するええもの』言ってたから大事に使っていたこの急須が本当は市場価格2500円程度の大量生産品で、忙しい敦の代わりに同じ形の急須を手に入れた自転車屋の店主は、
「骨董市で700円で買ったもんだでよ」とへらっと笑いながら事もなげに言った。
富子先生。
あなたがいういいもの、って自分にとってどうでもいいもの。だったんですね…
「九条先生はなんでこれを取り寄せて貰ったんですか?」
「現物のほうはいま警察署にあるから」
そうだった。何者かによる双葉宅侵入事件で犯人はこれでドレッサーの鏡を割ったのだろう、と証拠物として鑑識が持って行ったのだった。
「結論から言うとこの大量生産品の鉄の急須が全ての謎を解く『鍵』で、犯人はその本当の意味を知らずにあの家に近づくな、と君に警告した」
「やっぱり富子先生殺しの犯人と私の部屋に侵入した犯人は同一人物なんですね?」
そ、と敦は自分の席に付いて自ら淹れたほうじ茶を飲んで一息付いてから、
「第一発見者の君を署に迎えに行った夜に監察医と刑事たちが会話しててね。
甲状軟骨の骨折、って単語が耳に入った。ははあん、つまり犯人は男で両手で首を絞めて殺したな。って思った訳」
とノートPCの電源を入れ起動画面をぼんやり眺めながら
「首に巻かれたストッキングやら富子先生の嘘だらけの人生がマスコミやネットに拡散され、君の家への侵入事件が起こって焦点が分散されてしまった。
僕としては3日で解決すると思ったんだけど、なあ~」
午後の業務開始五分前、敦はマウスに手を乗せてとん、とん!と苛立たしげに人差し指でマウスを叩きながら残念そうに呟いた。
「えーと、私が真犯人で男だったらとします」
「君の思考を展開させてもらえないか?」
「富子先生を絞殺した後、わざわざストッキングを首に巻いたのは…千夜子さんが富子先生の首を絞めるのを背後から見ていたからです。
志古貴は千夜子さんが持って逃げたから何か似た物、伸縮性のあるナイロン製のものを巻き付けて千夜子さんを犯人に仕立てようとした」
机に頬杖を付いて敦は双葉の話に聞き入り、
「正解だ」
と満足げに頷いた。
「ではその時犯人は何処にいた?」
2、3回上げて貰った事があるんですが、と前置きしてから双葉は記憶している現場の部屋の構造を思い出しながら言った。
「千夜子さんが志古貴を取り出した箪笥の後ろにある押し入れからです」
敦は小さく笑って指でOKマークを作った。
「自然にあの家に出入り出来た男性なら犯人はおのずと絞られるよね」
さあ仕事!という敦の掛け声と共に二人は頭を推理モードから仕事モードに切り替えた。
その頃、紐梠署。
第一容疑者である富子先生の内縁の夫、東村壱造は小柄な体躯を椅子の上で折り曲げ、いつもは突き出たように見える唇を引き結んで取調室で完黙を続けていた。
耳の上に辛うじて残った白髪の上に禿げた頭頂部。乾いた皮膚全体で化石のような頑固さを貫いている。
羽振りの良いの男ほど体面を失ってしまったら急に弱くなり、聞きもしない事まで喋るものだが…この老人が頑なに守っているものは何だ?
と取り調べに当たる山根刑事は疑問に思い続けていた。
「ちょっと休憩を取りましょか」
一旦席を立ち、相方の中村刑事に見張りを任せてから隣室の後輩である早瀨刑事に、
「参ったなー、すぐに口を割るものと思っていたのに。膵臓癌で余命3ヶ月の病人やから長時間の取り調べは出来ないし、息子さんは父を早く出すように言ってくるし…」
と愚痴をこぼすと30才二児の母である早瀨刑事は縁なし眼鏡を指先でくいっとずり上げながら、
「でも弁護士を立てようとしないのは変です。その息子さんの司法書士事務所は経済的にどうなんでしょうね?」
と首をひねったので…
そこで事件当日の夜、敦に言われた一言をようやく思い出した山根刑事は早速九条税理士事務所に電話を入れ、
「おい九条、僕の責任で現場に入ることを許すから謎解きに協力してくれへんか!?」
と懇願すると、かなーり間を置いて
「…気付くのが遅い。これで三回目やで」
と笑いともため息とも取れる吐息が受話器の向こうから漏れた。