嵯峨野の月#120 兵ども
第6章 嵯峨野4
兵ども
一番古い記憶なので確か四つか五つの頃だったと思う。
日が暮れて夜の闇が深くなると育ての父シルベはソハヤを連れて里から離れ、ちょうど里の裏手にある見事に切り込んだ崖のごつごつとした岩肌に向かって広げた両手を上に向けながら蹲り、何やら意味のわからない言葉を長々と唱え何かに向けて祈り続けた。
やがてさっぱりとした顔でシルベが立ち上がるとソハヤに向けてわざと怖い顔して、
「このことは誰にも言うんじゃないぞ」と口止めするのはいつものこと。
あれは父が逝っちまう十日前、
「いったいお父は『誰』に祈っているの?」とずっと前から知りたかった事をとうとう尋ねた。
俺達エミシが信じる神の名は絶対秘密で、もし口にしたり誰かに教えたりしたら神のご加護を失う。
と言い聞かせて今まで息子にも教えずにきたシルベは、もしかしたら自分の命が残り少ないと予感してたのかもしれない。
「…わかった。今から言う名前を決してヤマトの人間に言うんじゃないぞ」
と額から左目を通り顎にかけて斜め下に向けて切り裂かれた古傷をさらした隻眼のエミシの戦士、シルベは唇を上下に開いて…
「ソハヤ、ソハヤ」と妻シリンに揺り起こされて賀茂騒速は目を醒ました。
厨のほうから飯を蒸したり菜を煮炊きする匂いが鼻腔に入ってきて途端に空腹を覚える。
そうだ、今日は上皇さまの鷹狩りが行われるので準備しなければ!
慌てて顔を洗って白湯を飲み、朝餉を腹に入れて身支度した騒速は最近、鷹戸(鷹匠)の仕事に興味を持ち、見習いとして入ることを許された十一歳の次男、志留辺を連れていつもより早く職場である主鷹司(皇族の狩猟を管轄する部署)に入り、まずは床に落ちている羽毛や獣の糞を箒で掃いて鷹狩の為に飼育されている鷹や猟犬たちの小屋の掃除をしてから…
「今日はお前たちの活躍の場だから飯は少なめにするぞ」
とまるでわが子にするように優しく語りかけて餌付けを行った。
主鷹司の長で六位を賜った世襲の鷹戸である御室戸鷹戸が本番で獣たちが貴人を傷つけぬように、と鷹と猟犬の機嫌を確かめ最終確認をする。
「やっぱり騒速が餌付け当番の日は鷹も犬たちも落ち着いている」
長からお褒めの言葉を頂き、は、と騒速は息子と共に頭を垂れた。
「鷹狩は貴人の方々がご無事に帰宅なさるまでが鷹狩だからな。常に周りに気を配っているように」
鷹狩を行う前にいつも注意なさる長が言葉の最後にちら、と騒速を見たのは。
狩装束に身を固めた嵯峨上皇を護衛する武官である巨勢清野どのがいつもなら気安く声をかけて下さるのに今日はこちらを見て下さらないのは。
上皇さまの随員である源信さまと小野篁どのが馬上から時々心配そうな視線を我に送るのは。
全て気の所為では無かった。と騒速は思い知る事となる。
遡って延暦二十年(801年)胆沢。
三尾鉄の飾りを頭頂部から垂らした銀色の兜を被り、銀色の甲冑を身に纏って進軍する将軍、坂上田村麻呂が、
いよいよここら辺りだな。
と思って手を上げて軍勢を止めさせた。
「一町(300メートル)先の草むらが不自然に動きました。あれは敵の斥候かと」
と田村麻呂の右側、轡を並べて耳打ちするのは副官の文室綿麻呂。
「じきに敵の騎馬兵達が来ましょう。アテルイ率いる最精鋭の戦士たちならここから死地になります」
田村麻呂の左側でなんの事はない、といった口調で最悪の予測を告げるのは巨勢野足。
二人とも歴戦の武官で田村麻呂が最も信頼を寄せる部下たちである。
半刻後、野足の読み通りにアテルイ率いる騎馬兵たちが黒漆の鎧に黒母衣という出で立ちで田村麻呂率いる朝廷軍と対峙した。
アテルイと田村麻呂。二人の将軍の間につむじ風が起こり夏草が巻き上がる。
「我の指示通りに動けば負けない。この胆沢での戦こそが大和と蝦夷の最後の戦いと思え」
背後で緊張する歩兵たちに余裕の笑顔を見せて励ました田村麻呂は「歩兵前へ、鉄棒で馬の脚を砕けっ!」と命令してから手にした直刀をかざす。
「綿麻呂と野足は歩兵が出た後で槍兵と騎兵を指揮しろ…絶対ここを奪るぞ!」
命じられた副官二人は夏草の野原の中手綱を捌いて騎乗のまま将軍の前に躍り出、蝦夷の戦士たちの雄叫びが近づく中我が手の直刀を将軍の直刀に交差させた。
「ご武運を!」
「…それが心許しあった三人だけが交わす武運を祈る合図だった、と我が父野足が生前よく話し聞かせてくれましたよ」
時は下って天長元年(824年)。
父たちの過去の武勇を語るのは野足の息子で右衛門祐である武官の巨勢清野三十一才。
「やっぱりおじじ様は本当に格好良かったのだなあ…」
清野の話と蒸した豆を肴に酒を飲む桓武帝皇子で田村麻呂の孫、葛井親王二十三才。
空海が降らせた、という春の長雨を廊下に立って眺めていた少年がおもむろに振り返って背後の清野と親王に言った。
「戦も政変も終わって平穏な世の中なのはいい事なのです。が、その頃に比べると我々武官が活躍する機会が減りました」
彼は文室綿麻呂の長男の文室巻雄《ふんやのまきお》。この年十五歳の武官見習いである。
そうですねえ、相槌を打った清野は弘仁七年(816年)に検非違使(皇宮警察)が設立されて都の治安は良くなって来たものの、
明らかに武官の家の子は昇進が滞り清野自身、右衛門佐にはなったものの十三年間その地位に据え置かれているのが現状である。
親王邸の庭の草木が打ち付ける激しい雨に項垂れるのと反対に、今まさに忘れ去られようとしている兵たちの子らには
抗いたい。どんなに時勢に撫で付けられようとも。
という気持ちが芽吹いて天に向かって伸びたがっていた。
「そういえば六年前から入っている鷹戸に蝦夷の戦士の血を引いている者がおりまして。ぜひ一度仕合ってみたいとの願いがなかなか叶いません」
最初に口火を切ったのは清野だった。
ふうん…と親王はしばし黙り込み、はた、と膝を打つと「決めた!私から兄上皇に頼んでその場を作ってやる」との願いが実現されたのはそれから二月後。
嵯峨上皇による鷹狩で思った以上の獲物を狩り、事情を知らない何人かの随員が帰り支度を始めた時のことである。
床几に腰を下ろしたままの嵯峨上皇が「これから狩りよりも面白い事が起こるから見てはくれぬか」と言い騒速に向かって済まなそうな顔で「賀茂騒速よ、日頃の鍛錬は欠かさずにいるか?」と仰った。
「は」
「今更東国でのいくさの血をたぎらせた者たちが居てね。頼むが彼の者らを鎮めてやってくれないか」
上皇のうなずきを合図に側に控えていた篁が長さ一尺(約30センチ)の木の棒二本と二尺三寸の棍棒一本を騒速に手渡した。
棍棒の方は直刀の鍛錬時に使うもので…短い方はエミシの武器蕨手刀を模したものだと騒速にだけは解った。
「あなたさまが教えで不殺の誓いを立てている事は相手の方々に言い含めておりますゆえ、得意な方でご存分に」
そう言って武器を模した棒を握らせる篁の目には無邪気な光が小躍りした。
狩場である初夏の草原を振り返ると既に巨勢清野が貴人の青年と武官見習いの少年を連れて進み出ていた。皆、棍棒を手に構えている。
「我は巨勢野足の息子、清野。エミシの戦士シルベの子であるソハヤどのに仕合を申し込む」
背後の貴人の青年が
「我は坂上田村麻呂の孫、葛井親王」
と白い歯をちらりと見せて笑い、少年が「我は文室綿麻呂の息子、文室巻雄」
と勢いよく名乗った。
なるほど、つまりはそういうことか。
この御狩場で行われるのは東国で朝廷軍を勝利に導いた将たちの子らと蝦夷の戦士の子同士が仕合う、いわば代理戦争。
穏やかな世が二十年以上も続き、彼らに色濃く受け継がれる兵の血が沸騰しそうになっているのだろう…
「上皇さま」
「ん?」
「これが座興なら本気で怒りますよ」
「そのつもりは無い。と彼の者らは申しておる。存分に戦え」
「お言葉ですが上皇さま」
床几の上で仕合を楽しみにしている上皇に意見する者が居た。
「何だ、篁」
「親王さまと清野どの、巻雄どのお三方は上皇さまの、ではなく『今上の帝《おほきみ》(淳和帝)の』大切な臣下です。せめて帝のご政務に差し障りのないようなご配慮を」
在位中から僧侶の論戦の場を設けたり貴族同士の弓矢対決をよく行い、この間の神泉苑での修法を空海と修円の呪力対決にすり替えたり、と。
とにかく他人の喧嘩をご覧なさるのが好きで好きでたまらない荒ぶったご気性の嵯峨上皇に篁は諫言した。
篁の的を射た諫言に上皇はしばし黙り込み、
「…あい解った。騒速」
「はい」
「葛井と巻雄は二十日くらい、清野は半月くらいで」
「心得ました」
と何やら二人にしか解らない指示の後、
「それでは始めっ!」
と目を輝かせて開戦の合図をなさった。
まずは騒速が挑戦者三人の前に進み出て蕨手刀を模した木刀を持った手を前腕で交差させてこころもち背を丸めて右足を前に出して屈み、構えの姿勢を取ると…
騒速の髪が逆立ち、相手の皮膚を突き破りそうな程の殺気が彼の収縮した筋肉から迸り出た。
「まずはお若いお二人からかかって来て下さい」
そう言って上げた相手の顔はまるで獲物を前にした狼の如く爛々と見開き、舌舐めずりしたそうな笑みまで浮かべている。
ニ間(約3.6メートル)も先にいる相手に気圧され、棍棒を持つ手が震える。
こ、これが本物の蝦夷の戦士なのか…!
何年も武術の鍛錬を受けた筈の葛井親王と文室巻雄の足が竦む。
肚の底から恐さがせり上げてくるし、今すぐ参った!と言って逃げ出したい。
それでも。
我が祖父や父がかつて戦った相手は何百人もいたのだ。
逃げるものか!
うりゃーっ!と掛け声を上げながら葛井親王は相手の右手を、巻雄は相手の左側の胴を狙って駆け寄り棍棒を振り上げ打ち据え掛かった。
刹那、相手の姿のが消えて二人の若者の棍棒は大きく空を切った。
相手の頭上を遥かに高く飛び越えた騒速は背後から短い木刀の側面で右手で巻雄の尻に、左手で葛井親王の背中に
べちっ!
と二打、御狩場に音が響く位の鞭打をくれた。
突然の灼けるような痛みに親王と巻雄は悶絶した。が、歯を食いしばって構え直し再び両側から騒速に打ち込もうとするも紙一重で交わされまたも鞭打を食らう。
それがニ十数回続く攻撃の間騒速はずっと無表情でいた。
激痛で顔を歪めよだれを垂らしながら肩で息をつき、よろよろになりながら二人は蝦夷の最後の戦士に立ち向かい全身叩かれながら最後は痛みのあまり気絶し、前のめりに地に倒れた。
「お二人とも叫び声一つ上げず武器を手離さず最後まで我の攻撃に耐えました…流石は征夷大将軍とその副官の子孫であらせられる」
騒速は倒れた二人の前に片膝をついて深く頭を垂れた。
上皇の後ろで戦いを見物していた貴族たちの間にどよめきが起こり、
我々の父や祖父世代はあのような恐ろしく強い者どもを相手に戦っていたのか…
いかに上皇さまのお許しとはいえ親王さまに対するあの仕打ちはさすがに無礼ではないのか?
「まだ戦いは終わっていない!」
無責任な貴人たちの不穏な囁きを打ち消すかのように巨勢清野が叫んだ。
「ソハヤよ、その肩と背中の鍛え方で解る。そろそろ小手先だけの技はやめてお互い本気でいかぬか?」
そうですねえ…と木刀の先で頭を掻いた騒速は足元に置いたままの棍棒を片手に持ち、その小柄な体から意外な程の力でぶんっ!と音を立てて振り回した。
「坂上将軍から言われて直刀で戦えるよう常に鍛えて来ました」
「お前、天野の里でのいつか手合わせしたい、と言う我の言葉覚えてたんだな?」
「本当に強い、と思った相手の言葉は絶対忘れません」
それだけで蝦夷討伐以来必要とされなくなり不遇に置かれていた清野の、
いや何度にも渡って戦地に赴き命がけで戦った武官の心と魂が救われたような気がした。
涙が滲んできそうになるのをこらえながら清野が先に仕掛けた。
「巨勢清野、参るっ!」突進してきた清野は頭上に高々と振り上げた棍棒を振り下ろし、横に構えた棍棒で騒速が受け止める。
がつん!!と御狩場一帯に棍棒のぶつかる音が響き、受け流した騒速が清野の腹を薙ぎ払おうとする。が、清野が素早く自分の左背後に回ったので騒速は急いで前方に足を踏み出し振り返ろうとしたその時、腰背部に熱い衝撃が走った。
まさか、大柄な清野どののがこうも俊敏に動くとは。初めての直刀での戦いを俺は舐めていた。
打たれた箇所の激痛に耐えながら騒速は棍棒の先を正眼に構え直した。
「ほう、我の打撃に耐えるか!?」
生まれて来てこれ以上楽しいことはない。といった痛快な笑い声を上げて清野が打撃した箇所を再び狙おうと斜めに棍棒を構えて来る。
だが、素早さでは騒速の方が半歩勝った。喉元を突きに見せかけて右手首をぐるり、と回して棍棒の先を左斜め下に向け、薙ぎ払うように清野の胸板を打った。
両胸の肺に圧力を受けてぐ、ふっ…!と清野が仰向けになって倒れた。
この打撃は武官として日頃鍛えた清野の分厚い胸板でなければ肋骨を砕き、肺腑を破って死に至らしめていただろう。
数秒の間失神していた清野は慌てて口を開けて息を吸ってから顔だけを上げ、背中の痛みで倒れそうになりながらも棍棒を支えに立つ騒速に向かって、
「参った…さすがは東国の兵」
と敗けを認め、清野の言葉を受けて騒速は前のめりに倒れた。
平和な日常を享受してきた貴族の子弟たちは剣を振り回して戦うなど身分の低い武官か盗賊のする事だ、と親から言われて育ってきたが…何だろう?この四人の戦いが見せてくれた清冽さは。
嘘やごまかしの無い世界を初めて目の当たりにした貴族たちはこの気持ちが何なのか言葉にできずにいたが、
「我が弟葛井親王、巨勢清野、賀茂騒速、文室巻雄、お前らはよくやった!」
という嵯峨上皇のお言葉が全て代弁してくれた。
そうだ!そこの鷹戸よくやった!
さすがは二度も朝廷を救った野足どのの倅、巨勢の清野だ!
と貴族たちの歓声に包まれた清野と騒速は痛むからだを引きずって曇りのない笑顔でその声に答えた。
最初からずっと父の戦いを見ていた騒速の次男志留辺は、
「あの父上に一太刀くれるなんて清野どのはすごい…」
と全身の血管が開くぐらいの興奮で頬をさせた。ソハヤの実の父アテルイから続く東国の戦士の血が、この時確かにシルベの中で騒ぎ始めた。
エミシ最後の戦士ソハヤと武官巨勢清野。
二人の兵の前につむじ風が起こり巻き上がった夏草が二人の足元に落ちた。
この戦いのお陰なのかは解らないが。
翌年の天長二年に清野は従五位上に叙爵され、淳和朝で順調に出世を遂げる事となる。
後記
かつて敵味方として戦った者たちの子孫の試合。