令月の宴2・天平の酔人
大きな甲羅を持った亀が首を少しもたげて、桶の中からこちらを睨んでいるようにも見えた。
「ほおう…これは見事な亀だねえ。探し出すのはさぞかし大変だったろう?」
と従三位公卿、藤原麻呂はいくつも池をさらって亀を見つけ出した官吏、賀茂小虫の労をねぎらい、官位を上げてやると約束した。
さて、袖をまくった麻呂の手には黒漆を含ませた筆が握られている。
「なあ麻呂、これは畏れ多い騙りだ…本当にやるのか?」
とためらいがちに声を掛けるのは兄の武智麻呂。
「今更何を言ってるんですか?兄上。ご自分が率先してやった事を悔いてももう遅いんですよ」
思わず顔をしかめそうになるのを我慢して麻呂は、
藤原家の唯一の良心。
とまで呼ばれあの事件までは人望の厚かった長兄を振り返り、こう言った。
「僕たちがやるのは騙りではなく国造りなのさ。それに」
と言葉を切って漆が乾かない内に素早く亀の甲羅に、
天王貴平知百年
と書き記して太い息を付き、
「僕たち兄弟はもう引き返せないんだ。なあに、騙りも十年続ければまことになる…」
と色白で柔和な顔に薄い笑いを浮かべて三十三才の若い貴人は言ってのけたのだった。
「やれめでたや、この亀の甲羅に現れたる文字は、天皇の世は貴く平和で百年続く。という意味。偶然我が邸の池に現れましたる瑞亀を献上し奉ります…」
「うむ、めでたい」と麻呂の甥にあたる聖武天皇はお喜びなり、
「甲羅の文字の二文字を以て、これより元号を天平、と致す」とお取り決めになられた。
「天平。なんと素晴らしき響きか…この麻呂ありがたきしあわせ」
と杓を掲げ、恭しく頭を垂れる麻呂は
ああまったく政とは、
なんて莫迦莫迦しいんだ。
と目の前で行われる作られた芝居を嘲笑った。
天平への改元は神亀6年8月5日(729年9月2日)のことである。
お気をつけ召されよ、長屋王。
成り上がりなれど藤原は帝の外戚、くれぐれも楯突かぬよう…
と都を去る際にご忠告申し上げたのだが、
「現実とは、予見していた最悪の結果よりさらに上を行くかたちでやって来るものなのだ」
と大伴旅人は、酔って眠りこける客人たちの中で山上憶良と若い副官、小野老だけを話し相手に昨年起こった長屋王の悲劇を回顧し、
「今思えば、我々が生きてこうして在るのは左遷されて大宰府に居たからなのさ」
と、白いあご髭に覆われた顔を歪めてはは…と皮肉を込めて笑うのであった。
それは神亀六年二月十二日(729年3月16日)のこと。
左大臣長屋王が謀反の疑いあり、と藤原四兄弟の讒訴を受けて身に覚えの無い呪詛の罪で執拗に尋問されて精神的に消耗し…
正妻の吉備内親王と彼女との間に生まれた三皇子を絞殺し、自ら首を括ってしまわれた。
と使者から報告を受けた旅人は、
まさか麻呂さま…あなたか?とその時思った。
藤原四兄弟の末子、麻呂が長屋王の邸で行われた宴で庭園の芝に寝っ転がり、友人たちと談笑しながら、
「上に徳の高い君主がおわし、下に賢い臣下がいる…
僕なんかに何ができる?
やはり琴と酒に専念するだけのことさ」
と瓶子から直に酒を飲むその横顔に、何か思い詰めたものを感じ取ったのは間違いではなかったのだ。と旅人は得心した。
と、昨年の神亀から天平への改元の背景には麻呂がいて、
その半年前に起こった長屋王の死という禍事を世間から忘れさせるために。
そして姉である聖武天皇の夫人、安宿媛(のちの光明皇后)を立后させるために、天平改元を断行したのだ。
「瑞亀発見の慶事。という既成事実をでっち上げて無理やり改元させた事くらい解りきっている。
麻呂め…藤原のせがれたちの中では一番優秀で話が出来る奴だと思っていたのに、不埒で浅薄な手段に出おったわ!」
と憶良は怒気を滲ませた声で呟き、乱暴に瓶子を置くその音がたん!と床の上で鋭く鳴った。
慶事がありて人は喜んで時代を迎え、禍事がありて人は時代を恨む。
そして新しい慶事に期待して早く早くと過去を無かったことにしたがる。
改元というのは、人びとが望み通りに生きることも出来なかったが我が人生を時代で区切って過去に追いやり、遣りきれなかった思いに蓋をする…
人生を諦めつつも自分の中でどこか落としどころを見つけて生きていくための知恵なのだ。
「長屋王さまは『皇族以外は皇后にしてはならない決まりがある』と夫人さま立后に強硬に反対なさっておられた。
正論を振りかざすだけで藤原が引き下がると本当に思っていなさったのなら」
とそこで旅人は言葉を切り、
「長屋王さまにも皇族である我は安泰無事である。という驕りがあったのだ。
それゆえに麻呂さまは長屋王を憎悪した…」
と麻呂の心情を推し量った発言をした主に老は、
「お待ち下さいませ帥さま、それでは麻呂どのは」
と天皇家の秘密に触れる畏れ多いことを口にしようとしている自分に気付き、慌てて我が口を手で覆った。
「これは持統朝の頃から仕えていた臣なら誰でも知っている秘密だ…そうだよ、麻呂さまは天武帝の最後の実子なのだ」
と、麻呂の母である五百重はじめ亡き天武帝の子を身籠った女たちが悉く後宮から追い出されたのは、
天武帝の后であった鸕野讚良が我が子草壁を天皇にしたいがために他の皇子を後継として認めぬ、という強硬手段を取ったからだ。
実家に帰された藤原五百重娘は異母兄である藤原不比等と形だけの結婚をしてから麻呂を産み、麻呂は不比等の子として育てられた。
もう三十五年前の出来事を知っている者はほとんど世を去り、自分だけが知る事実を旅人は今こっそりと親友と部下に打ち明けた。
「もし麻呂さまが出生の秘密を知っていたのならば、
それが亡き不比等より教えられていたのならば、
自分を捨てた朝廷を憎悪し、我が甥である長屋王もなんのためらいも無く弑すであろうよ」
灯火の火がちりちり、と音を立てて消えそうになったので老が慌てて油を足した。
「やはり産みの親より育ての親ということなのでしょうか?」
招待客が寝静まってやっと気遣い無く酒が飲めるようになった老が杯の酒を飲み干してから主に問うと、
「老、お前まだまだ若いな」と笑われてしまった。
「麻呂どのの心中はお前が推し量れるほど浅いものではないぞ」
「と言いますと?」
それに答えたのは床に腹這いになって干し膾をかじっていた憶良だった。
「麻呂の養父である藤原不比等もまた、身籠った母親ごと捨てられた天智帝の子だったからだ」
老いた臣なら誰でも知っている右大臣どのの秘密を聞いてしまった老は、そこで初めて藤原の、いや、朝廷の勝手で捨てられた皇子たちの…
怨嗟と呪いと、実は天皇になりたかった野心。
という負の遺産が不比等から麻呂に受け継がれてしまったのだという事に気付いた。
「まあとにかく、決まった元号にああだこうだ難癖をつける馬鹿もおるまい。
天平、という文字の通り平穏な世であるのをを願うしかないな」
麻呂さま、思えばあの宴で歌を詠む前のあなたのお言葉、
僕は聖代の狂生ぞ。直に風月を以て情と為し、魚鳥を翫と為す。
「僕は平和な世に生きるろくでなしなのさ。
自然の移り変わりだけに心慰められ、魚や鳥を可愛がる事しか楽しみがない」
と自虐的に仰って上座の長屋王さまをわざと不機嫌にさせたのは…
常に心に敵を宿し、首を取る事を生き甲斐にする。
という最も辛い道を選ばれたからのですね。
「…私は宴が終わるのが怖い、と生まれて初めて思いました」
藤原の専横の世の先には何があるのだろうか?
いやいや行く末さえも思い煩うな!とかぶりを振り、宴の時に詠んだ我が歌、
梅の花今咲けるごと散り過ぎず我が家への園にありこせぬかも
梅の花よ、今盛んに咲いているように散り過ぎることなく、我らの園にずっと咲いていて欲しい。
を声に出して酒を煽り、老はこの夜珍しく深酒をした。