嵯峨野の月#145 桜
最終章 檀林9
桜
あれは花冷えの夜、幼い正良親王が喘息の発作で命の危機に陥った時だった。
「正良!」
「正良さま!」
と我を忘れて取り乱す父嵯峨帝と母嘉智子を押し除けて空海が正良の上半身を起こし、胸に脇息を押し付けた。
「これで息が楽になる筈です。眠れないのはお辛いでしょうが脇息にもたれたまま朝まで持ちこたえてくださいませ!
それと周りに火鉢と水の入った鍋をありったけ用意して湯気を立てまくり、痰を出しやすくするのです!」
そうした空海の処置で発作もおさまり、三日めで仰臥出来るまでに回復した正良は久しぶりに深く眠り、目覚めた時…床の周りには満開の桜が咲き誇っていた。
目覚めた自分を覗き込む嵯峨帝が「苦しい発作をよくぞ乗り越えてくれたな」と薄桃色の空間の中涙ぐむ。
これは父が美しいと評判の車折神社の桜の枝を分けてもらい、正良の病気快癒の祈りを込めて御自ら壺に生けたものである。
と聞かされた。
三日後に桜が散ってしまう頃に正良は床上げし、一枚の花びらを手のひらに載せた正良は、
我が身もこのひとひらと変わらぬ儚いものなのだ。
と正良親王この時十歳。幼いながらに人生の無常を悟った。
それから二十五年後の承和十二年二月一日(845年3月12日)。
ここでは即位して仁明帝となった正良は紫宸殿で宴を行い、紫宸殿の南の庭にある枯れた梅の枝を宴客が見ている中、自らの手で折り取り、
「これより紫宸殿を守るのは左近の桜と右近の橘とする」
と宣言した。
これは唐から苗木を輸入して移殖した植物である梅を天皇自らが折りとる事で日ノ本は大陸から精神的に独立して自国独特の文化を育てる。
という決意表明でもあった。
それから五年後の嘉祥三年(850年)初夏。この日は体調が良く起き上がった仁明帝は愛器である琵琶、玄象をかき鳴らし鼻歌を歌いながら上機嫌であった。
女御の藤原順子が廊下に出て琵琶を弾く夫を見るなり、
「まあ、無理に起き上がってよいのですか?」
と床に戻そうとするのを「いいんだ、しばしこのまま好きにさせてくれないか」といつになく強い口調で拒むので四半刻ほど謡いながら琵琶を弾く仁明帝、はた、と撥を持つ手を止めて、
「急なことだが春宮を呼んでくれないか?」と傍らの宮女に命じた。
父の病が進行していたのでとうにこの時を覚悟していた道康親王が側近の小野篁を伴い病衣に琵琶を抱いた父の御前に「道康、罷り越しました」畏まって顔を伏せると
「うむ、これより天皇の位を譲るものとする」
と突然の譲位を告げる父帝の声が頭上から降りかかった。
嘉祥三年三月十九日(850年5月4日)
道康親王、仁明天皇の譲位により践祚。この時より道康は文徳帝となる。
この日の六日後の朝、文徳帝女御の藤原明子が皇子を出産した。後の清和帝の誕生である。
明子の父である右大臣、藤原良房は
「もう…もうこれ以上嬉しいことはありません…帝、ありがとうございます」
と帝の御前だというのに顎から涙と鼻水が垂れるほど歓喜で泣きじゃくった。
が皇子誕生の一報を知らされた直後、仁明帝は
もうこれで皇統の心配なし。と生きる義務を全て終えたかのように倒れ、昼過ぎには危篤状態となった。
病床に呼ばれたのは息子文徳帝と母、橘嘉智子。そして乳母だった宮女明鏡と小野篁の四人。
「…いいか?道康。政のことは篁に相談していちいち決めるのだぞ。決して外戚の藤家に全てを牛耳らせてはならぬ」
と苦しい息の下、上皇は息子の手を強く握る。
「はい、仰せの通りに致します…」
と文徳帝が誓うと上皇は抱き抱えたままの玄象を示し、
「私がこの世に生きていた事の証にこの玄象を天皇家の宝に加えて欲しい」と遺言し、それも実行する。と息子に約束させた。
最期に仁明帝は生母、橘嘉智子の手を取り、
「この正良、天皇家の為とはいえ橘家と恒貞には顔向け出来ない罪を敢えて犯してしまいました。泉下で償いますゆえどうかもう苦しまないで下さい…明鏡、母上を頼むよ」
「お任せ下さい!正良さま!」
と明鏡が涙ながらに誓うと、お前の声を聞いていつも元気を貰ったな。と微笑み、
「お別れでございます」と言ったきり昏睡状態になった。
夢の中、仁明帝が見た光景は幼い頃「正良…正良。いかないでくれ…」と枕元で泣きじゃくりながら桜の花を生ける父、嵯峨帝の姿。
父上、私はもう人生でのつとめを全て果たしたようです。今からそちらに参りますゆえ。
この日の夕方、仁明帝崩御。享年四十。
生まれつき病弱で常に父嵯峨帝と比べられ、苦しみながらも天皇としての務めを果たし、長い天皇家の歴史に血を繋げる清和帝の誕生まで確かめ、そして逝った。
「正良さま…これでもう苦しまないで済む処へ逝かれたのですね」
と母嘉智子は長いこと息子の手を握り続けた。
それから数日後、嘉智子は明鏡とともに落飾。義理の甥にあたる高岳親王の手によって削がれた髪の束を見た時、
「まああ…わたくしったらこんなにも重いものを抱えて生きてきたのですねえ」
と尼姿でほんのり笑ったがその身は既に病に冒されていた。
残り少ない日々のほとんどを嘉智子は明鏡と共に過ごし、互いの夫である嵯峨帝との思い出話に花を咲かせた。
「でもね、明鏡。わたくし神野さまにもう少し心を開いていれば良かった。という後悔があるの。
あの方はわたくしを大事にしてくださったけれど素直に喜ぶのが下手なわたくしはあの方に寂しい思いをさせていたのかもしれない…」
と病床に半身起こしてきれぎれに語る嘉智子に明鏡は
「いいえ、神野さまにとっては嘉智子さまと連れ添った日々こそが人生の宝物だった筈ですよ」
「そうかしら?」
「そうです!」
と励ましてくれる明鏡に向かって嘉智子はふっ、と微笑み、箪笥の中から分厚い封書を取り出して入侍の頃から支えてくれた彼女に向かって
「明鏡、わたくしにとっての人生の宝物はその名の通り御鏡のように身を守ってくれた貴女でした。
わたくしが居なくなったらこの遺書を公開して広く知らしめて下さい」
とそう頼むと
「はい」
とはっきりした返事で明鏡がしかと遺書を受け取った時、ああ良かった…と狭まる視界の中、嘉智子は倒れた。
「大丈夫ですか!?いま薬師を呼んで参ります」
と立ち上がる明鏡の袖を取って止めた嘉智子は首を振り、
あれは十五で入侍した頃、薄紫の野菊の花を自分に向けて捧げ持った狩装束の若者が真剣なまなざしでこちらを見ている。
律儀にも迎えに来てくださったのですね。
遠ざかる意識の中でふふ、と笑った嘉智子は、
「嘉智子、橘の嘉智子でございます」
とはっきり答え、両手で何かを受け取る動作をしてから明鏡の腕の中で力尽きた。
嘉祥三年五月四日(850年6月17日)
大皇太后橘嘉智子崩御、享年六十四才。諡号檀林皇后。
謀反の罪人として処刑された橘奈良麻呂の孫として生まれ不遇の幼少期を過ごし、
彼女の美貌を認めた姻戚の藤原内麻呂を後見人に実家の橘家と藤原北家の期待を背負って宮中に上がり嵯峨帝に最も愛され、
後継ぎ仁明帝を産んで大皇太后というこの国の女人の頂にまで登り詰めた人であった。
が、その死の翌日に公開された遺書によって表向きの出世とは真逆の彼女の本音が明かされる。
「…全ての形あるものは常に移り変わっていき、人の身も世の栄華もいずれは消えてなくなるのです。
虫や獣が死して土となり自然に還っていくのが当たり前なのにどうして人間だけがその流れから外れんとするのでしょうか?
もしわたくしが死したら、その骸は道端に放置して鳥や犬などの獣に食べさせてあげて下さい。
それが生き物の当たり前なのですから」
明鏡によって朗読された遺言は長女の正子内親王はじめ遺族全員を驚愕させた。
いくらご遺言とはいえ、天皇の祖母にあたる女人の骸を道端に捨てる事などは到底無理なので葬儀は皇族の慣例通りに行われた。
「政変の事では皇統を正良と藤原に売った。と随分母を恨みましたが、全て誤解だったとあの遺書で判りました…」
葬儀を終えて我が家である嵯峨離宮に戻った正子内親王と恒貞親王は嘉智子と同時期に出家し、住処にしているこの離宮も寺となる事が決まっている。
「久方ぶりに母上の眉間の皺が消えてこの恒貞、安堵致しました」
正子の息子恒貞親王はうふふ、と笑い、月が映る大沢池の湖面を眺めながら、
「私が春宮辞去を何度も申し出た頃、おじい様に密かに託されたご遺言があったのですよ」
と母が憎むべき対象を失った今、嵯峨帝の本意を明かすことにした。
「藤原に殺されたく無いから春宮なんて辞めたい!と泣きじゃくる私におじい様はこう言われました。
あのね、恒貞。私も兄伊予親王を政変で殺されている身だから言える事なんだけれど…
どうせ失脚させられるなら出来るだけ高い身分のまま失脚しろ。お前の叔父の高岳のように出家して生きる途が残されている。
ただの親王のまま失脚したら私でさえも命の保証はしかねる。そうだなあ、清しい心を持ったお前は天皇よりも僧侶になった方がいい。
もしそうなったら嵯峨野の離宮を遺産として譲るから寺にして出来るだけ今の形のまま保って欲しいんだ」
父の遺言にして本心を初めて聞いた正子は帽子の下で驚いて口を開けてしばらく黙り込んだ。
「従兄弟の道康は天皇として今後藤原と渡り合って苦しみ、私たち親子はこうして静寂と安寧の中にいる…
本当の意味で勝ったのはどちらなんでしょうねえ」
と鋭い眼光を見せて笑った恒貞に対して正子は、やはり血は争えない。この子も嵯峨帝の孫なのだ。と、初めて我が子に畏怖と戦慄を覚えた。
「お父様はご自分の死後まで全て自分の思い通りになさるのね。いえ、
それこそ嵯峨天皇というお方なのです」
その後、親子が住まう嵯峨離宮は大覚寺として栄え、正子内親王は尼僧の地位向上に生涯を捧げた。
昔、自らの意思で豪奢な檻に留まっていた小鳥が主を失い、我が子の元に身を落ち着ける事にした。
七つの頃からの宮仕えを辞した明鏡は文徳帝の側近として活躍する我が子、源信に迎えられて彼が建てた邸に移り住み、孫たちに嵯峨朝の頃の昔話をしながら穏やかな余生を送り当時の人にしては長生きをした。
臣籍降下によって幼い頃より母から離されて育った信は
時折、陽射し暖かい縁側で居眠りをする明鏡の姿を見つけてはその姿に寄り添い、
「お帰りなさい、母上」
と平安初期という激動の時代を人知れず働き続けてきた小鳥の休息を労るのだった。
後記
小鳥の休息と母を取り戻した信源氏。宮中編完結。